浪岡秀種 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代生誕 不詳死没 正平年間(1346年 - 1369年)?別名 行岡(浪岡)右兵衛太夫秀種?、行岡右兵衛大夫秀種? 、浪岡兵部大夫? 凡例浪岡秀種時代 鎌倉時代末期 - 南北朝時代生誕 不詳死没 正平年間(1346年 - 1369年)?別名 行岡(浪岡)右兵衛太夫秀種?、行岡右兵衛大夫秀種? 、浪岡兵部大夫?氏族 浪岡氏(行岡氏)父母 父:不詳、母:不詳妻 不詳子 頼子(萩の局)(北畠顕家妻)特記事項 奥州藤原氏第3代当主である藤原秀衡の六男・藤原頼衡の曾孫(秀衡の玄孫)と伝えられ、奥州藤原氏の末裔とされる。テンプレートを表示 浪岡 秀種(なみおか ひでたね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の浪岡氏の武将とされる人物。 青森県青森市浪岡町には、藤原秀衡の六男藤原頼衡が次兄の藤原泰衡と対立した後この地に逃れ、浪岡右京大夫と名乗ってこの地を支配、浪岡氏の祖となったという伝承がある。秀種は頼衡の曾孫、秀衡の玄孫と言われ、奥州藤原氏の末裔とされる。 北畠顕家との関係 北畠顕家が義良親王を奉じて多賀国府にはいるとこの地にいた秀種は進んで臣下となり、娘である萩の局を顕家に嫁がせたという。顕家と萩の局との間には、北畠顕成、女子(安東貞季妻)、北畠師顕らが生まれたという。 北朝との抗争 秀種はその後、福島県の霊山城で足利方と抗したが正平2年(1347年)に霊山城は落城し、浪岡に入ったとされている。 参考文献 系図纂要 大西源一『北畠氏の研究』 Related Articles