北畠顕成
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諸説
近世史書には顕成の事績について触れたものがあるが、これらの所伝は史料不足のため真偽が定かでなく、以下に諸説として列挙するに留める。
- 『太平記』の作者
- 『太平記評判秘伝理尽鈔』は、『太平記』作者の一人として顕成の名を挙げている。同書によれば、顕成は26歳で出家して行意と号し、多武峰に退いて児島高徳や日野蓮秀らと共に『太平記』の一部を執筆・校閲したという。顕成の出家を伝える史書として、他に『南山要記』・『南朝伺候略伝』がある。なお、行意は「歌道の達者」であったというが、顕成の和歌は1首も伝わっておらず、歌人としての活動は確認できない。あるいは、鎌倉時代初期の勅撰歌人行意との混同があるか。
- 懐良親王に従軍
- 『北畠准后伝』・『南朝編年記略』は、顕成が九州に下って征西将軍懐良親王に従軍したとする。後者によると、顕成の従二位権大納言叙任は、吉野帰参後にその勲功を賞したものとされる。別に筑紫で戦死したと注する系図もあるが、これは筑後川の戦いで討死した「北畠源中納言」[6]を顕成に比定したためか。
- 浪岡北畠氏の祖
- 一方で顕成が陸奥に下ったとする所伝もある。浪岡氏関連の系図がそれで、『応仁武鑑』・『津軽旧記』によれば、顕成は正平2年(1347年)霊山城陥落の後、南部氏の庇護の下で船越(岩手県山田町)に居を構えたが、文中2年(1373年)安東氏の招請で浪岡(浪岡町)に入部し、その子孫が土着して浪岡氏を称したという。その菩提所である京徳寺の過去帳には、忌日を応永9年8月7日(1402年9月4日)、法号を恵林院とする。しかし、北畠氏一族が浪岡に依拠した時期や人物については異説が多く、応永年間に孫の顕邦が入部したとする説の他、建徳年間の守親入部説や元中年間の親統入部説などがあり、何れも事実関係を確認できない。
- 後期村上水軍の祖