海軍石垣島北飛行場
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| 海軍石垣島北飛行場 (ヘーギナ飛行場) | |
|---|---|
| 沖縄県石垣市大浜 | |
現在、ヘーギナ飛行場跡地は国際農林水産業研究センター熱帯・島嶼研究拠点となっている。 | |
日本軍が石垣島で建設した三カ所の飛行場 | |
| 種類 | 沖縄の旧日本軍施設 |
| 施設情報 | |
| 管理者 | 日本帝国陸軍 |
| 歴史 | |
| 建設 | 1933年 |



海軍石垣島北飛行場 (かいぐんいしがきじまきたひこうじょう) は、旧日本軍が石垣島に建設した3つの飛行場のうちの一つで、1933年に沖縄県八重山郡大浜村平喜名 (現石垣市字真栄里) に海軍の小型飛行機用滑走路として設置された。現在は国際農林水産業研究センター沖縄支所「熱帯・島嶼研究拠点」がおかれている。
海軍石垣島北飛行場
空襲
1944年10月10日の沖縄を対象とした初の大規模空襲 (十・十空襲) で、石垣島においては12日におこなわれた。午前8時過ぎ、北部から飛来した米軍機四機がまず平得飛行場、そして白保飛行場を銃撃、方向を変えてヘーギナ飛行場で急降下しながら機銃掃射した。1945年1月1日からは、空爆が頻発するようになり、4月から6月には毎月千機の空爆にさらされた[3]。
タスクフォース57
1945年3月15日から英国太平洋艦隊が米国第5艦隊に加わり、第57任務部隊(タスクフォース57)を任じられた。TF57は(図4)にみられるように米軍の沖縄侵攻作戦「アイスバーグ」における先島群島の日本軍飛行場の封じ込めであり、英国艦隊は3月27日から先島群島で艦載機による先島群島の空爆を開始した[4]。
先島郡島には石垣島と宮古島という 2 つの大きな島があった。その各島にはそれぞれ3つの飛行場が設置されていた。これらは可能な限り行動から遠ざける必要があった。
石垣島:
・作戦クイーン:敵が先島群島を経由して多数の航空機を展開させた場合に実行。「ピーター」と同様に、戦闘機の掃討から、日本軍の増援部隊が飛行場を利用するのを防ぐため、大型爆撃機が重護衛とともに攻撃を開始するというもの。 — The British Pacific Fleet TASK FORCE 57 Politics & Logistics: Sakishima Gunto, Okinawa Campaign, 1945.
・石垣メイン(舗装、重AA26本、軽AA66本)(註 海軍石垣島南飛行場
・宮良飛行場(芝生)(註 陸軍石垣島飛行場)
・ヘギナ飛行場(芝生)(註 海軍石垣島北飛行場)
宮古島:
・平良メイン(舗装、重AA12本、軽AA54本)(註 海軍宮古島飛行場)
・野原飛行場(舗装)(註 陸軍宮古島中飛行場)
・洲鎌飛行場(舗装)(註 陸軍宮古島西飛行場)
・狩俣には水上飛行機基地もあり
イギリス艦隊の目的は、戦闘機の存在を確認しながら、(これらの飛行場の)滑走路にクレーターを作って機能不能にし、空中または地上で発見された(日本の)航空機を破壊することであった。この達成のため、ローリングス提督とその士官たちは、状況に応じて適用される 2 つの計画を考案した。
・作戦ピーター:日本の飛行場がほとんど使用されていなかったときに適用。その日は戦闘機の掃討から、小規模な「目標戦闘航空哨戒」(TarCAP)を各島上空で維持し、空母から小規模な嫌がらせ襲撃を頻繁に開始するもの。
(図4) が示すように、連合軍が「宮良飛行場」と呼んでいたものは、陸軍石垣島飛行場(白保飛行場)であり、日本軍が1945年に住民を酷使して建設を急がせた「宮良秘密飛行場」ではないことに留意、また図には八重山列島と宮古島列島の日本軍飛行場6か所が書き入れられているほかに、西表島に「西表飛行場」なる記載が見られるが、これは誤情報と思われる。
出撃記録
不明。
戦後
終戦後はそのまま農地として利用され、沖縄の施政権移行後は国有地となる。1970年に農林省熱帯農業研究センターが置かれ、1993年に農林水産省国際農林水産業研究センターとなった。