海野信親

戦国時代から安土桃山時代かけての人物、甲斐の戦国大名で武田氏当主の武田信玄(晴信)の次男 From Wikipedia, the free encyclopedia

海野 信親(うんの のぶちか)は、戦国時代から安土桃山時代かけての人物。甲斐戦国大名武田氏当主の武田信玄(晴信)の次男。武田 竜芳(たけだ りゅうほう)又は武田 竜宝 [1]とも、勝重(かつしげ)とも呼ばれる[2]

生誕 天文10年(1541年
改名 武田二郎(幼名)→海野信親→竜芳(号)、竜宝[1]
概要 凡例海野 信親 / 武田 竜芳, 時代 ...
 
海野 信親 / 武田 竜芳
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武田龍宝木像(入明寺所蔵)
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時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文10年(1541年
死没 天正10年3月11日1582年4月3日
改名 武田二郎(幼名)→海野信親→竜芳(号)、竜宝[1]
別名 勝重[2]
戒名 長元院殿釈潭竜芳大居士
主君 武田信玄勝頼
氏族 武田氏甲斐源氏)→海野氏
父母 父:武田信玄、母:三条の方
義父:海野幸義
兄弟 武田義信信親武田信之黄梅院北条氏政室)、見性院穴山梅雪室)、武田勝頼真竜院木曾義昌室)、仁科盛信葛山信貞武田信清松姫菊姫上杉景勝室)
正室海野幸義の娘
側室穴山信君の娘
武田信道、娘
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幼名は二郎。母は三条の方(三条院殿)で、晴信嫡男の義信、夭折した信之は同母兄弟、晴信四男で武田家家督を継承する武田勝頼は異母弟にあたる。

生涯

武田竜芳(海野信親)墓所
甲府市入明寺(2013年11月18日撮影)

甲陽軍鑑』によれば信親は盲目であったと伝えられている。失明の時期については『甲斐国志』は生まれながらの盲目であったとする説を採っている。

近年は、弘治2年武田晴信願文写の存在から幼少期の失明であった可能性も指摘されている[3]。願文には信玄が、疱瘡にかかった息子の目が治癒する事を願う内容が記されているという。

信玄期の信濃侵攻で征服した信濃小県郡の国衆・海野幸義の娘を娶り海野氏の名跡を継承するが、一向宗(浄土真宗)の僧である長延寺 実了師慶の弟子となり出家し、竜芳と号した[4][2]

信親は半俗半僧の身で、『軍鑑』では御親族衆には含めず、政治の表舞台に出ることがない幼年男子や側室、女子などに用いられる「様」付呼称で「御聖導様」(ごしょうどうさま)と称されている[2]

永禄8年(1565年)には兄の武田義信が謀反により東光寺に幽閉された(義信事件)。竜芳は盲目で弟の信之は夭折していたため、武田家の家督は異母弟の勝頼が継承した。

天正10年(1582年)、織田信長による甲斐侵攻の際は甲斐入明寺に匿われたものの、天目山の戦いにおける勝頼敗死の知らせを聞くや、同寺で自殺したとも殺害されたとも伝えられる。3月7日、武田家滅亡の4日前に信長の嫡子・織田信忠により殺害されたともいわれる[2]。享年42。法名は長元院殿釈潭竜芳大居士。

子孫

一族の穴山信君(梅雪)の娘を娶り、その間に儲けた子の信道は出家して顕了道快と号し、織田家による残党狩りを逃れたが、江戸時代に入ってから大久保長安事件に連座して伊豆大島に流された。信道は同地で没したが、子孫は赦免されて江戸に戻り、高家として命脈を保った。

信親の子としては他に女子があり、信親の妹の信松院殿に匿われている。

脚注

参考文献

関連項目

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