淳于晏

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淳于 晏(じゅんう あん、生没年不詳)は、五代十国時代軍人本貫登州[1]

明経に及第し、霍彦威の下で小校となり、門下に寄食した。あるとき霍彦威が敗北して単身脱出し、側近に従う者もなかったが、ひとり淳于晏が剣を杖として霍彦威に従い、草むらを歩いた。このため霍彦威は淳于晏の信義を高く評価して、互いに仲良くした。霍彦威が節度使を歴任すると、淳于晏はいずれもその下で従事をつとめ、軍府の事務から私事にいたるまで、細大に関わらず淳于晏が取り決めた。淳于晏は霍彦威の幕下の補佐役であったが、まるで家宰のようであった。以後も公侯の門客として、往々にして効果があったので、当時の人に「効淳」と称された。霍彦威がいたるところで治績を挙げたのも、淳于晏の力によるものであった[2][1]天成2年(927年)、淳于晏は平盧節度副使から亳州団練使となった[3]

脚注

伝記資料

参考文献

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