清原秋雄
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天長8年(831年)内舎人。承和元年(834年)父・夏野の造営した双岡山荘に嵯峨上皇が行幸した際、夏野の子息がそれぞれ昇叙されて秋雄は従五位下に叙爵し、同年侍従に任ぜられる。
承和4年(837年)10月の父・夏野の死去に伴い服喪のために官職を辞すが、翌承和5年(838年)正月には本官に復する。承和9年(842年)に発生した承和の変に際しては、山城国五道の一つである大枝道(山陰道の山城・丹波国境)を守護した[1]。承和13年(846年)左兵衛佐に任官する。
文徳朝では左兵衛佐・右近衛少将と武官を歴任する傍ら、丹波介・信濃介・備中権介と地方官を兼ねる。この間の仁寿3年(853年)に従五位上に昇叙されている。天安元年(857年)備中権守に転任し、翌天安2年(858年)には豊前守と文徳朝末期には地方官を務めた。
清和朝に入ると、天安3年(859年)左馬頭に任ぜられ京官に復す。貞観5年(863年)兄の滝雄の卒去と前後して正五位下に昇叙されると、貞観7年(865年)左近衛権少将、貞観8年(866年)従四位下と要職を務めて順調に昇進する。その後散位となるが、貞観12年(870年)大和権守に任ぜられ、右兵衛督を経て、貞観16年(874年)従四位上に至る。同年4月24日卒去。享年63。最終官位は従四位上行右兵衛督兼越前権守。