清岡公張
日本の武士、官僚
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略歴
乾退助に脱藩を提案
慶応3年9月9日(1867年10月6日)、土佐藩お抱えの刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)は、乾退助が江戸の土佐藩邸に勤王派浪士を隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する計画を立てていると、寺村左膳に対し密告を行った。行秀は乾退助が水戸浪士(もと天狗党)・中村勇吉に宛た書簡の写しを証拠として所有しており、退助の失脚を狙って左膳に密告したものである[2]。「この事が容堂公の耳に入れば、退助の命はとても助からないであろう」という話を漏れ聞いた清岡公張(半四郎)は、退助の身を心配し土佐勤王党の一員であった島村寿太郎(武市瑞山の妻・富子の弟で、瑞山の義弟)に乾退助を脱藩させることを提案。島村が退助に面会して脱藩を勧めた。しかし、退助は容堂の御側御用役・西野友保(彦四郎)に対し、水戸浪士を藩邸に隠匿していることは、既に5月(薩土討幕の密約締結を報告の際)に自ら容堂公へ申し上げている事であるため、既に覚悟は出来ており御沙汰を俟つのみであると返答している。果たしてこれに対して容堂は、
と答えたため退助は命拾いをしたという[4]。
維新以降
栄典
- 明治3年5月8日 - 従五位下[9]
- 1882年(明治15年)2月1日 - 正五位[9]
- 1883年(明治16年)6月5日 - 従四位[9]
- 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[9][10]
- 1894年(明治27年)6月30日 - 正三位[9][11]
- 1901年(明治34年)2月25日 - 従二位[9]
- 勲章等
- 1882年(明治15年)8月9日 - 勲三等旭日中綬章[9]
- 1887年(明治20年)
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[9][14]
- 1890年(明治23年)7月10日 - 貴族院議員章[15]
- 1891年(明治24年)3月30日 - 勲一等瑞宝章[9][16]
- 外国勲章佩用允許
