寺村道成
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来歴
生い立ち
天保5年(1834年)、土佐国高知八軒町で、土佐藩士・寺村主殿成相(中老・700石)の三男として生まれる。兄は夭折しており、主殿は本家からすでに宇平(のち主水。諱は成寿)を養子に迎えていたが、安政元年(1854年)に主殿が死ぬと、道成は宇平の養嗣子となった[2]。
国学を修めて才学人として藩内で知られるようになる。文久2年(1862年)2月5日、安政の大獄以来隠居していた前藩主・山内容堂から召され、側用人となり活躍した。同年4月、文久の改革に伴い、安政の大獄で罰せられていた人々の復権が図られ、容堂の謹慎も解除。左膳も8月に政務参与となり、10月には御用部屋入りに任ぜられ、江戸・京都で土佐藩の活動の一部を担った。
同10月17日、山内容堂の前において、乾退助と時勢について対論。左膳は開国、公武合体論を述べ、乾退助はあくまでも朝廷の意思を遵奉し攘夷するべきで、幕府が朝廷の意向を無視するのであればその時は違勅の罪を問うのもありだと唱えた。[3]
吉田東洋を暗殺して藩の主導権を握った勤王組(いわゆる土佐勤王党)が尊王攘夷派の衰退により藩当局の弾圧を受けたがこの時点で吉田に起用された身である左膳が罷免された形跡は見られない。しかし左膳自身は当時の時勢や他の役人たちとの意見の隔たりに強い苦悩を抱えていたらしく、無事に帰国したのを機に辞意を固めた左膳は病気を理由に引き籠り、4月26日に無事に役職を免ぜられた。しかし5月2日には御用召があり、病気を理由に辞退したが翌3日容堂からの内命を受け、4日には仕置役に任命される[4]。しかし元治元年(1864年)6月25日[5][6]には人事のことで容堂の怒りを買い退役し3年間は容堂から遠ざけられる。その間慶応元年(1865年)閏5月25日には大目付に昇任した福岡孝弟の後任で山内豊範の側用人に任じられる。[7]
再び容堂のお供で上洛
慶応3年(1867年)4月、再び容堂の側用役に任ぜられる。ただし、この人事では山内豊範の御用役という立場は変わらず、今回の上京という限定された期間だけ容堂の御用役として働くということだった。役職としては、豊範と容堂の両方に仕える側用人を兼ねる形で、期間限定の措置である。左膳は最初は先年の上京の経験から再三断っていたが、容堂より「何分勉強いたすように」と仰つけられ、さらに今回は同役を仰せつけられた真辺栄三郎も時勢について同じ論だった左膳は意を決してこの人事を請けた。[7]
薩土盟約
同月に開催され、短期間に破綻した四侯会議の決裂後、容堂は帰国するが、実弟・山内豊積(兵之助)を名代として滞京させ、寺村、真辺正心(栄三郎)、福岡孝弟らに補佐を命じた。坂本龍馬の進言を受けた後藤象二郎の大政奉還論に共鳴し、参政に任じられて薩土盟約の締結に加わった。当初から武力倒幕路線を歩もうとしていた薩摩に対して、左膳は和平路線を貫き、薩土盟約書の成文化を担当。[8]盟約破綻後も大政奉還路線を推進した。
大政奉還
10月3日に主君・山内容堂ほか4名と連名して、老中・板倉勝静に大政奉還建白書を提出した。これを受けて10月14日将軍・徳川慶喜は大政を奉還し、朝廷に受け入れられた。この直前、左膳は報告のため帰藩している。11月、再び上京するが、国事掛は後藤・福岡・神山左多衛の3人に任され、左膳はそれを甘受して「君側専務之任」となった[7]。
鳥羽伏見の戦いから失脚まで
鳥羽・伏見の戦いにおいて、当初土佐藩は容堂の方針から不参加であったが、乾退助の意を組む主戦派・山田平左衛門らは薩土討幕の密約に基づいて参戦。これらが評価されて朝廷より官軍として錦の御旗を御下賜あらせられた。
乾退助はじめ容堂の命令を無視して参戦した土佐藩士たちを批判した結果、それを理由に左膳は失脚。さらに明治元年(1868年)6月27日には惣領職を召され、安芸郡野根村(現東洋町。土佐藩領の東端)へ蟄居となる[8]。明治3年(1870年)2月に処罰が解除され、高知帰参を許された。
赦免後
明治3年(1870年)10月4日に赦免された[9]後、姓を日野に改め明治4年(1871年)7月22日に権大参事に任命され[10]23日に御用召を受ける[11]が、同年9月12日に免官[12][13][14]。その後明治5年(1872年)2月1日(左膳自身は2月7日としている[15])山内家の家令となる[16]。当時の山内家では山一商会による事業経営が行われることになり、3月には家扶金子家吉に商会経営が委任されていたが、明治6年(1873年)頃になると山内家の家禄資金と事業資金が混同されているとの風聞が生じる。左膳改め春草は家禄管理と事業経営を分離すべきであると建言したが、その後従来家令である春草が取り扱っていた余剰金の管理は金子家吉へ移された挙句に春草が管理していた預け金も山内家当主の直轄となったので返上することとなり、辞職願を提出し明治7年(1874年)3月9日に家令を免ぜられた[15]。その後は真辺正心が後任の家令となる。[15][17]
この頃の春草について、佐々木高行は後年の回顧録[17]において、春草を後藤象二郎に近い人物と位置付けた上で、「何分不束ノ事發露シカケタルヨリ、家令被免タル」と記している。明治11年、第十五国立銀行の用務担当を委嘱され(6月2日御家扶場に呼び出され口頭で正式通達)これに伴い月15円の手当が支給されるようになる。明治12年4月20日には部理代人として、海上保険会社に関する一切の事務を委嘱される。[18]
明治19年(1886年)10月23日には日本初の私鉄である日本鉄道会社の理事委員に選出され、明治21年(1888年)10月29日に退任するまでの2年間その役職を務めた。[19]官報の日真新事誌にも関わる。 明治29年(1896年)7月14日、死を前にして従五位に叙せられた[1]。享年63。墓は祐天寺(東京都目黒区)。
人物・逸話
- 明治後年、左膳は逓信大臣として帝国大学を訪れた後藤象二郎と再会。驚いた後藤にどうしてこんなところにいるのかと尋ねられた左膳は「老母を養わねばならずやむを得ず仕官している。」と答え、後藤は左膳を県知事や貴族院へ推薦することを申し出たが、左膳は「もし栄達を望むならどうしてあなたの手を煩わせることがあろうか」として辞退した。[20]