清水三男
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京都市下京区生まれ。京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)を経て、1928年第三高等学校を卒業[4]し、京都帝国大学に入学。同期に赤松俊秀ら[5][6]がいる。義兄でもあった中村直勝[7]の影響と、指導教官三浦周行の指導で荘園研究を行った[8]。卒業論文「封建制度の成立に関する一考察」[2][9]をまとめ、1931年京都帝国大学文学部を卒業する[2][10]。同年、大学院に進学[8][11]し、西田直二郎の指導を受ける。唯物史観の立場に立って中世封建社会成立についての研究を進めた。
1931年10月から1934年3月まで、叡山学院で神道史の講師を務めた[1]後、1935年、和歌山県立和歌山商業学校教員となる[12][13][14]。日本共産党に資金を提供したことと、「唯物論研究」誌、「法と経済」誌、「歴史科学」誌等に論文を作成掲載したことが共産主義を宣伝する目的であったとされたことが、治安維持法違反に当たるとして、1938年3月23日に検挙され、同年10月26日に起訴された[15]。翌年、懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けて、保護観察[8][16]となって釈放[17]されると、牧健二に雇われて[18]日本古法制書目調査の助手となる[8][19]。その一方で、中世村落史の研究に従事し、1942年に『日本中世の村落』を上梓した。同書は国民学術協会の理事を務めていた柳田国男[20]の推薦により[21]、1944年に昭和19年度国民学術協会賞を受賞する[22]。1943年に陸軍に応召、幌筵島に赴く[8]。敗戦後シベリア抑留。1947年1月27日、抑留先のスーチャン捕虜収容所で急性肺炎のため死去したと伝えられる[8][23]。
抑留中も、帰国後の研究活動を期待され、1945年創立の日本史研究会の創立委員の一員に名を連ねたり[24][25]、京都帝国大学では帰国後に非常勤講師となる予定もあったという[17]。
没後、『清水三男著作集』全3巻が刊行されている。著書『日本中世の村落』は戦後歴史学の金字塔である石母田正の『中世的世界の形成』で唯一言及されている研究であり、東京の石母田に並ぶ中世史家であった。