清水寺 (静岡市)
静岡県静岡市葵区にある寺院
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
歴史
- 永正年間(1504年) - 印融法印が現在清水寺のある場所に檀林を開く。
- 天文5年(1536年) - 今川氏輝が死亡。清水寺開創の遺命有り。
- 永禄2年(1559年) - 京都より尊寿院大僧正道因(そんじゅいん だいそうじょう どういん)が招かれ、開山。
- 永禄4年(1561年) - 住職が盛から秀尊に譲られる。
- 永禄11年(1568年) - 武田信玄が駿府を攻め、伽藍が焼失する。
- 慶長7年(1602年) - 徳川家康が朱印をもって供養田と山林を寄進する。
- 正徳5年(1712年) - 伽藍が焼失。正徳4年に再建。
- 明和7年(1770年) - 時雨窓が境内に芭蕉の句碑を建立する。
- 嘉永7年(1854年) - 安政東海地震で境内の堂宇がほとんど崩壊焼失。
- 明治初期(1868年) - 浅間神社から薬師堂が移される。
- 明治44年(1911年) - 静岡市より分時鐘を譲り受ける。
- 昭和6年(1931年) - 本堂を中国寺院風に鉄筋で建立。
- 昭和19年(1944年) - 東京都内の疎開の児童を受け入れる。
- 昭和55年(1980年) - 聖天堂が完成。
今川氏と清水寺
駿河の守護大名・今川氏輝は1513年(永正10年)に、8代今川氏当主・氏親の嫡男として生まれ、13歳で元服した。その翌年に氏親が死亡したため家督を継いだが、このとき氏輝はわずか14歳の若年であったため、氏親の正室・中御門氏が髪をおろし、寿桂尼と名乗って補佐役となっている。その後、1536年(天文5年)に氏輝が24歳で死亡したときに、清水寺の開創を遺命したとされる。「今川記」によれば、氏輝は当時より臨済宗を信仰していたとされているため、遺命でなぜ真言宗の寺院を開創させたのかは謎であるが、寿桂尼が京都出身であり、観音信仰を持っていたからである可能性がある。
また、氏輝が死亡したのと同日に弟・彦五郎も死亡し、後に家督を巡る争い(花倉の乱)が引き起こされている。そのためか、漸く1559年(永禄2年)になって氏輝の遺命が実行され、今川家臣・朝比奈丹波守元長が当寺を建立した。その際、地形が京都の清水寺と似ているため、この寺名が付けられた。
徳川氏と清水寺
開創された清水寺は、堂宇が整うまでもなく1568年(永禄11年)には武田氏の駿河侵攻によって焼失してしまう。しかし、徳川家康が、1582年(天正10年)に駿府を領有して以降はしばしば当寺を参拝し、自らの念持仏の千手観音(伝・恵心僧都作)を奉納するなどした。
また、家康が将軍として江戸城にあった1602年(慶長7年)には高10石の朱印地を与え、この朱印をもって供養田と山林を寄進するとともに、三つ葉葵の使用を許した。そして、大御所として駿府にあった最晩年の1616年(元和2年)には本堂の再建を行った。
その後も当寺は、たびたび災害にあっているが、その都度幕府によって修理が施されている。だが、文化年間には整っていた伽藍が明治初めの絵図に描かれていないのは、安政の大地震によってその大部分が崩壊して以来修理をされていなかったからである。したがって、長い間、幕府の加護を受けてきた当寺もたびかさなる災害により、幕末には衰退の道を歩んでいたことが分かる。
清水観音大祭
文化財
アクセス
参考文献
- 『駿府清水寺 -境内の堂塔と句碑を訪ねて- 』、山内政三、地元史研究会、昭和59年。