清浦錬子
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来歴

生い立ち
1858年(安政5年)、紀州藩士の長女として生まれた。埼玉県の14等出仕であった清浦奎吾を紹介され、1873年に結婚した。
品川女子学院
1918年(大正7年)、品川女子学院の創設者・漆雅子が発足させた「荏原婦人会」の会長に就任した。このことから、1926年(大正15年)に荏原女学校が創立されると、初代校長に就任。1929年(昭和4年)に創立された品川高等女学校でも校長を務め、学校に体育館が設立されたときには夫の清浦奎吾が講演と揮毫を行っている。錬子は皆の前では立っているだけの「何も言わない校長」だったが、「何か凛とした何ともいえない良い雰囲気というものいが漂っていた」(漆雅子)という。
令嬢會
錬子はまた、夫が本願寺の幹事等を務めた繋がりで、本願寺の関係者の紳士夫人らの会合・「令嬢會」を創設した。この会はその後、関係者以外の令嬢の入会も認められるようになり、夫人令嬢の服装などを研究する会となった。特に錬子は令嬢會幹事として重きを置かれ、「夫人といえば、令嬢會。令嬢會といえば夫人」と評されるようになった。
人物
『明治大臣の夫人』を著した岩崎徂堂は、錬子は夫と同じで、「別に充分の學才に、富んで居る譯でもない」が、「自然の徳が備って居る」と評した。
