正平3年/貞和4年(1348年)、5代当主・渋川直頼の子として誕生。正平7年/文和元年(1352年)に父から上野渋川郷、武蔵蕨郷、備後御調郡などの所領を譲られた。これに加え正平20年/貞治4年(1365年)、室町幕府より備中と備後の守護に任命された。さらに九州鎮圧の進まない斯波氏経の辞任を受け、18歳にして九州探題に就任する。義行の探題就任には伯母の渋川幸子(室町幕府2代将軍足利義詮の正室)の強い意向が働いたともされ、備中・備後守護任命も九州下向を容易にするための便宜とされる。
幕府の期待を受けて九州へ下向しようとしたが征西大将軍懐良親王を擁する菊池武光ら南朝方の征西府の頑強な抵抗に遭い、四国の河野氏により九州渡海を阻まれたため、九州に入る事無く山陽地方に留まらざるを得なかった。翌正平21年/貞治5年(1366年)に義詮が大友氏継へ宛てた御教書には、九州の国人たちが所領争いばかりして幕府の南朝討伐に従わないことが書かれており、こうしたこともあって義行の九州下向は進まなかった。探題在任中に義行が九州の在地勢力へ宛てた文書は3通しか残っておらず、他は備後守護として出した文書しか存在しない。
その後も征西府の勢威に抗えず、正平23年/応安元年(1368年)に出家。建徳元年/応安3年(1370年)、ついに九州に一歩も入ることができないまま探題職を更迭された。後任は今川了俊で、翌建徳2年/応安4年(1371年)には備後守護も取り上げられ了俊に交替させられた(備中は保持)。やがて都へ帰還すると、天授元年/永和元年(1375年)8月11日に死去。享年28。
次男の満頼は備中守護を受け継ぎ、応永3年(1396年)に了俊が更迭された後の探題職にも任命された。また、満頼の他にも2人の息子満行・義長がおり、満頼以降の渋川氏は3つの系統に分かれ、満頼・満行・義長の子孫はそれぞれ京都渋川氏、九州渋川氏、関東渋川氏となった。
なお、『尊卑分脈』では義兄弟として渋川義宗(吉見尊頼、実父は吉見義世)がいるが、事績はほとんど明らかになっていない。