渋谷総司
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渋谷は弘化3年(1846年)に下総国小金佐津間村(現・千葉県鎌ケ谷市)名主の次男として生まれる。
22歳の頃、大政奉還後に薩摩藩が江戸藩邸を拠点に関東擾乱策を実行に移すと、倒幕派の渋谷も加わって幹部となり[1]、他の浪士と共に江戸で放火、略奪、暴力行為などで幕府を挑発、幕府側も諸藩兵による市中取締を強化し、乱闘や拘束が繰り返された。
王政復古後の慶応3年12月(1868年1月)、幕府は諸藩兵を指揮し、薩摩藩邸の焼き討ちを決行[2]。篠崎彦十郎を始め162名の浪士や藩士、小姓などが死亡または降伏した[3]が、相楽総三や水原二郎らは無事に藩邸を脱出し、品川沖の薩摩藩の翔凰丸で紀州へ逃亡した[4]。しかし、相楽と共に乗り込もうとした渋谷や金輪五郎など48名ほどは乗り損ねてしまう[5]。それらの者は羽田に上陸して四散し、多くが捕らえられたが、渋谷や金輪などは巧みに潜伏しながら東海道を上り、のちに相楽と合流した[6][7]。
年明けの鳥羽・伏見の戦いを端緒に戊辰戦争が始まると、渋谷や相楽の同志は赤報隊と称し、東山道軍の先鋒として年貢半減などの宣伝活動を実施。しかし、それが新政府の反発を買い、偽官軍の烙印を押されてしまう。渋谷が所属する一番隊は信濃へ進み、中山道と甲州街道の分岐点である下諏訪宿を新たな拠点としたが、新政府は赤報隊に逮捕命令を出し、同宿で赤報隊隊士を拘束。3月3日、相楽・渋谷を含む幹部8名を斬罪に処した[8]。享年22。
処刑から60年後(1928年)、相楽の孫・木村亀太郎や、渋谷の大甥・渋谷貴重らの活動により[9]、昭和天皇の即位大礼を機に、贈位として相楽に贈正五位、渋谷に贈従五位が追陞された[10]。