渋谷総司

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渋谷 総司(しぶや そうじ、弘化3年(1846年) - 慶応4年3月3日1868年3月26日))は、江戸時代末期(幕末)の志士。本名、渋谷謹三郎。変名を大谷総司とも。赤報隊隊士。

渋谷は弘化3年(1846年)に下総国小金佐津間村(現・千葉県鎌ケ谷市名主の次男として生まれる。

22歳の頃、大政奉還後に薩摩藩江戸藩邸を拠点に関東擾乱策を実行に移すと、倒幕派の渋谷も加わって幹部となり[1]、他の浪士と共に江戸で放火、略奪、暴力行為などで幕府を挑発、幕府側も諸藩兵による市中取締を強化し、乱闘や拘束が繰り返された。

王政復古後の慶応3年12月(1868年1月)、幕府は諸藩兵を指揮し、薩摩藩邸の焼き討ちを決行[2]。篠崎彦十郎を始め162名の浪士や藩士、小姓などが死亡または降伏した[3]が、相楽総三水原二郎らは無事に藩邸を脱出し、品川沖の薩摩藩の翔凰丸で紀州へ逃亡した[4]。しかし、相楽と共に乗り込もうとした渋谷や金輪五郎など48名ほどは乗り損ねてしまう[5]。それらの者は羽田に上陸して四散し、多くが捕らえられたが、渋谷や金輪などは巧みに潜伏しながら東海道を上り、のちに相楽と合流した[6][7]

年明けの鳥羽・伏見の戦いを端緒に戊辰戦争が始まると、渋谷や相楽の同志は赤報隊と称し、東山道軍の先鋒として年貢半減などの宣伝活動を実施。しかし、それが新政府の反発を買い、偽官軍の烙印を押されてしまう。渋谷が所属する一番隊は信濃へ進み、中山道甲州街道の分岐点である下諏訪宿を新たな拠点としたが、新政府は赤報隊に逮捕命令を出し、同宿で赤報隊隊士を拘束。3月3日、相楽・渋谷を含む幹部8名を斬罪に処した[8]享年22。

処刑から60年後(1928年)、相楽の孫・木村亀太郎や、渋谷の大甥・渋谷貴重らの活動により[9]昭和天皇即位大礼を機に、贈位として相楽に贈正五位、渋谷に贈従五位が追陞された[10]

脚注

参考文献

外部リンク

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