渋谷重国
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生涯
平治の乱では源義朝の陣に従う。『吾妻鏡』によると、義朝が敗れたのち、所領を失って陸奥国へ逃れようとした佐々木秀義とその子らを渋谷荘に引き留めて援助し、秀義を婿に迎えている。治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵では秀義の息子たちは頼朝に従い、重国は頼朝から加勢を打診されたが、平氏に対する旧恩から石橋山の戦いで平家方の大庭景親の軍に属した。石橋山の戦いで頼朝が敗れると、8月26日、景親が重国のもとを訪れ、頼朝に従った佐々木兄弟の妻子を捕らえるよう要請する。重国は「彼らが旧恩のため源氏の元に参じるのを止める理由はない。私はあなたの要請に応じて外孫の佐々木義清を連れて石橋山に参じたのに、その功を考えず定綱らの妻子を捕らえよとの命を受けるのは本懐ではない」と拒否したために、景親はそのまま戻っている。夜になって佐々木兄弟は途中で行き会った阿野全成を伴って重国の館へ帰着した。重国は喜んで彼らを匿ってもてなしたという。
その後、頼朝に臣従して所領を安堵され、子の高重と共に御家人となる。元暦元年(1184年)正月の源範頼率いる源義仲追討軍に高重と共に参加。重国は範頼・義経と共に後白河法皇が幽閉されていた六条殿へ参じ、仙洞御所の警護にあたった。2月に捕虜となった義仲の家臣樋口兼光を重国が預かり、郎党が首を切ろうとしたが斬り損じたため、高重が兼光を斬った。
高重は武勇人柄ともに頼朝の覚えめでたかったが、重国のもう一人の子の重助は文治元年(1185年)4月の御家人たちによる無断任官問題で頼朝の怒りを買っている。