渡辺武三

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生年月日 (1922-10-10) 1922年10月10日
出生地 日本の旗 日本 愛知県碧海郡依佐美村
(現・刈谷市小垣江町)
没年月日 (1982-04-23) 1982年4月23日(59歳没)
渡辺 武三
わたなべ たけぞう
渡辺武三
生年月日 (1922-10-10) 1922年10月10日
出生地 日本の旗 日本 愛知県碧海郡依佐美村
(現・刈谷市小垣江町)
没年月日 (1982-04-23) 1982年4月23日(59歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都港区
東京慈恵会医科大学附属病院
出身校 豊田工科青年学校
所属政党 民社党
称号 従四位
勲二等瑞宝章
日本の旗 衆議院議員
選挙区 愛知4区
当選回数 5回
在任期間 1969年12月29日 - 1982年4月23日
挙母市議会議員
当選回数 1回
在任期間 1955年 - 1959年
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渡辺 武三(わたなべ たけぞう、1922年10月10日 - 1982年4月23日)は、日本の政治家労働運動家民社党衆議院議員(5期)。

愛知県碧海郡依佐美村(現・刈谷市小垣江町)の三州瓦を扱う商家に生まれる[1]。11歳のときに父親を亡くす[2]。1937年、高等小学校を卒業。1938年、豊田自動車工業株式会社に就職。1943年、豊田工科青年学校(現・トヨタ工業学園)を卒業。

徴兵され、中国大陸各地を転戦した。1946年、復員。1948年3月に全日本自動車産業労働組合が結成されると、同組合東海文部の法規対策部長に就任。1955年から挙母市(現・豊田市)議会議員を1期務めた[2][1]

1966年9月から1969年8月までトヨタ自工労働組合委員長を務めた[3]

トヨタ自工労組は長く日本社会党伊藤好道ならびに伊藤よし子を支持してきたが、1967年1月の総選挙で伊藤よし子は4位当選の中野四郎と356票の小差で落選。この敗北はトヨタ自工労組にとって、社会党と決別し民主社会党支持へ移行するきっかけとなった。

1968年7月の第8回参議院議員通常選挙愛知県選挙区で、トヨタ自工労組は社会党現職の成瀬幡治と民主社会党新人の金子正輝を並列推薦。最重点候補とした金子は落選[4]

同年6月、トヨタ自工労組は次期衆院選で民主社会党の候補者を推すことを決定。渡辺は同党の西村栄一春日一幸書記長に説得され、入党[1]。社会党が名鉄労組出身の太田一夫を統一候補としたこともあり、同年8月、民主社会党およびトヨタ労組は渡辺擁立を決定[5]

1969年11月、民主社会党は民社党に改称。同年12月の第32回衆議院議員総選挙に旧愛知4区から立候補し初当選した。

1976年3月、妻を亡くす。それから間もない同年5月、民社党本部総務局長だった渡辺は同局の女性職員を暴行、監禁。この事件が1977年3月8日発売の週刊誌で報じられると、3月10日に総務局長を辞任した[6][7][8]

1979年10月の衆院選で4選。1980年6月の衆院選で5回目の当選を果たす。

まだ50代後半であったが、1981年12月24日、トヨタ自工労組は評議会を開き、渡辺に代わる新人を擁立する方針案を明らかにした[9]。それを受けて全トヨタ労連とトヨタ自工労組は1982年初頭に候補者選考委員会を設け、人選に入った。トヨタ自動車工業社長の豊田英二とトヨタ自工労組委員長の話し合いにより、同労組の副執行委員長の伊藤英成が後継候補に選ばれた[10]。同年3月5日、主要労組のトヨタ自工労組が伊藤に決定。これにより渡辺の後継は事実上確定した[11]

1982年4月22日、出張中の永末英一委員長に代わり、副委員長として民社党国会対策委員会の会議を主宰。同日午後、突然、心筋梗塞の発作に襲われ慈恵医大病院に入院。翌4月23日、同病院で死去した[1]59歳没。同月27日、特旨を以て位記を追賜され、死没日付をもって従四位勲二等に叙され、瑞宝章を追贈された[12]追悼演説は同年5月14日、衆議院本会議で中野四郎により行われた[13]

不祥事

脚注

参考文献

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