渡辺甚吉 (14代)
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岐阜県[4]岐阜市松屋町[2][5]で、岐阜貯蓄銀行(現十六銀行)頭取で実業家の13代渡辺甚吉、八重の長男として生まれた[3][5]。
暁星中学校(現暁星中学校・高等学校)を経て[5]、1930年(昭和5年)東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、同年3月から1931年(昭和6年)1月まで欧米各国を視察した[2][3][4][5]。大学在学中に父が死去し家督を相続して14代甚吉を襲名した[3][5]。
帰国後、有隣生命保険社長、浩栄社社長、北海興業社長、築地電気社長、明徳自動車代表、岐阜信託取締役、岐阜貯蓄銀行取締役などに就任した[3][4][5]。1937年(昭和12年)4月、岐阜商工会議所会頭に就任し1938年(昭和13年)1月まで在任した[3][4][5]。
1939年(昭和14年)岐阜県多額納税者として貴族院多額納税者議員に互選され[6]、同年9月29日に就任し[7]、研究会に所属して活動し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在籍した[4]。同年4月に行われた第1回参議院議員通常選挙において、岐阜県地方区から無所属で出馬して当選し(補欠、任期3年)[8]、緑風会に所属して参議院議員に1期在任した[4]。
また、岐阜県農業会長、東海ラジオ放送取締役、東海テレビ放送取締役副社長、名古屋駅前駐車場社長などを務めた[2][3][4]。
1972年(昭和47年)5月25日死去、65歳。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈(勲四等からの昇叙)、正四位に叙される[1]。
親族
インヴィクタ車
甚吉が1930年に欧州周遊した際に、中古の英国車インヴィクタ(en:Invicta (car))4½リッター(1928年型)を購入して日本に持ち帰り、運転手を雇って使用した[11]。1937年に梁瀬自動車でレーシングカーに仕立て直され、多摩川堤で開催された玉川オートレースに渡辺家運転手の操縦によって参戦し、初戦では本田宗一郎のカーチス号を破って優勝した[11]。第二次大戦で車は行方知れずとなったが、戦後小林彰太郎が発掘し、米国に渡って修復され、1981年にラグナ・セカで披露され、現在はドイツ人コレクターが所有している[11]。エンジンフード付近に「渡辺甚吉」の文字が書き込まれているという[12]。
