門脇重雄と渡部芳造
一方、1892年(明治25年)の第2回総選挙で現職の門脇重雄を破って当選した渡部芳造(渡村) は吏党系で、以後2人は選挙の度に争い議席を分け合った。第3回総選挙では門脇は機関紙「米子毎日新聞」まで出して雪辱を期したが、再び渡部に敗れた。渡部の勝因は、綿花の輸入関税撤廃に反対する弓浜の有権者がこぞって渡部を推したため、と伝えられている。
1902年(明治35年)からは鳥取市を除く全県郡部が一選挙区となり、立憲政友会対帝国党の時代を迎えた。門脇も政友会から立ったが、落選した。[4]