弾正少弼・左衛門権佐・大学頭などの京官を務める一方で、大和守・山城守と畿内の国司も歴任した。この間の長保3年(1001年)大和国の百姓より愁文が提出されている[1]。
寛弘4年(1007年)越前守に任ぜられるが、寛弘7年(1010年)3月30日以前に卒去。最終官位は越前守正五位下。孝道が在任中のまま没したため、急遽木工頭・大江雅致が後任として越前守に任ぜられている[2]。
一条朝に盛んに行われた作文会の講師を務めるなど[3]、同朝の文人としての活躍が見られ、『本朝麗藻』『類聚句題抄』『擲金抄』に作品が収められている。同時代の漢詩人である大江匡衡から「凡位を越ゆる者」と評された[4]。