源斉頼
従五位下、検非違使、蔵人、左衛門尉、出羽守。鷹飼の達人。
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経歴
長元8年(1035年)に催された藤原頼通家歌合(「関白左大臣頼通歌合」)に源頼実、藤原経行らと共に蔵人所雑色として参加したことが知られる。(「賀陽院水閣歌合」『類聚歌合巻』)。蔵人兼右兵衛尉在任時であった天喜3年(1055年)には内裏の蔵人所町屋(蔵人の詰所)に逃げ込んだ抜刀の暴漢を郎等の滝口武者源初、小野幸任らと共に取り押さえた功により検非違使に任ぜられた[2](『百錬抄』『扶桑略記』)。
同5年(1057年)、前九年の役で苦戦する源頼義の後援として源兼長に代わり出羽守に任ぜられ下向した(『百錬抄』『扶桑略記』)。しかし出羽赴任後の斉頼は頼義に対して非協力的な態度を示し、その戦功も役の終盤に出羽に逃れた安倍良照とその甥正任を捕縛する程度のものに留まっている。没年は不明であるが、現在の滋賀県高島市マキノ町牧野に存在する斉頼塚古墳は斉頼の墳墓と伝えられる。
後代、三男・惟家の子孫が近江国高島郡に土着して善積氏を称したほか、一女(正確には孫娘)は摂津源氏の源頼政の室となり、源仲綱や二条院讃岐などの母となった。