滋野七郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年12月19日)- 1886年(明治19年)3月16日)は、江戸時代の幕末から明治時代の尊攘運動家、僧侶、神職。
越後国糸魚川寺町に生まれる。18歳のとき、糸魚川藩の祈願所である持明院の院主となった。院は近郷近在の修験院の頭で、天津神社の祭りにはこの院主が先導しなければ巡行ができないほどの格があった。同郷の田村弥平や小川長秋、銀林綱男などと親交を結び、国学を修め、勤皇の大義を論じた。1868年、戊辰戦争が起こると院を捨て、親兵隊の方義隊を組織して官軍のために斥侯を務めた。また京都で暗殺された大村益次郎の襲撃犯を隠匿したとして投獄された。維新後は神職となり、筑波山神社を最初に、天津神社祭祠、弥彦神社の宮司、皇典講究所などを歴任した。宮司在任中、大橋一蔵などと明訓校を創設している。享年52歳。墓所は弥彦村字神保山にある[1][2]。