滑り坂論法
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滑り坂論法(すべりざかろんぽう、英語: slippery slope argument)とは、滑り坂を擁護する者が、ある一連の行為が連鎖反応を起こし望ましくない結末に至ると信じるという理由でその行為が退けられる、というものである[1]。滑り坂論法の核は、論争中の特定の決定が意図せざる結果をもたらす可能性が高い、という点にある。こうした議論の強さは、その小さな一歩が本当にその結果へと至る可能性が高いかどうかに依存する。これはワラント(この場合、重大な結果に至る過程の実証)として知られるものの観点から定量化される。

この種の議論は、聴衆を脅かそうとして特定の行為が起こす可能性のある結果を誇張する、恐怖あおりの一形態として用いられることがある。最初の一歩が主張される結果へと至ることが実証可能でない場合、これは滑り坂の誤謬(英語: slippery-slope fallacy)と呼ばれる。これは非形式的誤謬の一種であり、連続体の誤謬の下位区分の一つである。なぜなら、これは中間的立場の可能性を無視し、カテゴリーAからカテゴリーBへの離散的な移行を仮定するからである。滑り坂の誤謬のほかの慣用句としては、くさびの薄い端(the thin edge of the wedge)、ドミノの誤謬(domino fallacy、ドミノ効果論証の一形態)、堤防決壊(dam burst)などがあり、また別個の議論型ないし推論の欠陥とされることもある[ラクダの鼻(camel's nose in the tent)、恐怖の行進(parade of horribles)、茹でガエル(boiling frog)、雪だるま効果(snowball effect)などの諸用語もある。
滑り坂、論法、誤謬
一部の論者は、滑り坂の出来事と滑り坂の議論とを区別する[2][3]:122。滑り坂の出来事は次のような一連の条件付き言明によって表すことができる。
その考えは、一連の中間ステップをつうじて p が z を含意するというものである。一部の論者は、厳密な必然性は要求されず、各段階で次のステップがもっともらしくありさえすれば、依然として滑り坂と特徴づけられうると指摘する[2][4]:186。厳密な含意では p は z を含意するが、各ステップでの確率がたとえば90%である場合、ステップが多ければ多いほど、p が z を引き起こす可能性は低くなる。
滑り坂の議論は典型的には消極的な議論である。すなわち、ある人にある行為をとることを思いとどまらせるために、もしそれを行えば何らかの受け入れ難い結論へと至ると論じることである[5]。一部の論者は、同じ構造をもつ議論が、望ましい結論へと至るがゆえに最初の一歩を踏み出すよう人を促す、肯定的な仕方で用いられることもありうると指摘する[6]。
ある人が滑り坂論法を用いていると非難されるとき、それはその人が誤謬を含む推論を犯していると示唆されており、たとえ何らかの理由で p が z を含意すると主張していても、これは事実ではない、ということになる。論理学と批判的思考の教科書では、滑り坂と滑り坂論法は通常誤謬の一形態として論じられるが、誤謬を含まない形態の議論も存在しうることが認められる場合もある[7]:273–311。
議論の類型
さまざまな論者が滑り坂論法をさまざまな、しばしば相反する仕方で分類してきた[7]:273–311が、滑り坂論法として記述されてきた基本的な議論の型は二つある[8][9]。一方は「因果的滑り坂」(英語: causal slippery slope)と呼ばれてきた[10][11]:308。この型の弁別的特徴は、p から z へと至るさまざまなステップが出来事であり、各出来事が連鎖のなかで次のものを引き起こす原因となる、ということである[12]。第二の型は「判断的滑り坂」(英語: judgmental slippery slope)と呼ばれうるもので、その考えは、「坂」が一連の出来事から成るのではなく、何らかの理由で、ある人がある特定の判断をなせば、合理的に別の判断をもなさざるをえなくなる、というようなものである、というものである。判断的型はさらに、概念的滑り坂と決定的滑り坂に下位区分されうる。
概念的滑り坂(conceptual slippery slopes)は、トルーディ・ゴヴィエが「滑り坂的同化の誤謬」(英語: the fallacy of slippery assimilation)と呼ぶもの[11][13]であり、砂山のパラドックス(英語: sorites paradox)と密接に関連している。それゆえ滑り坂について語る文脈で、メリリー・サーモンはこう書いている。「滑り坂は古代以来の推論形式である。ファン・フラーセン(『科学的世界像』)によれば、近親相姦は不道徳でないとする議論がセクストス・エンペイリコスに見られる。その根拠は、『母の親指に小指で触れることは不道徳ではなく、他のすべてはただ程度においてのみ異なる』ということである」[14]。
決定的滑り坂(decisional slippery slopes)は概念的滑り坂に似ており、明確な境界線のない連続体が存在するという点に依拠している。すなわち、ある立場や行動の道筋を受け入れることに決めれば、いま、あるいは将来、その連鎖のなかで次の立場や行動の道筋を受け入れないことの合理的根拠がなくなる、というのである。
滑り坂論法の分類が困難なのは、用語をどう用いるべきかについて文献に明確なコンセンサスがないからである。この二つの誤謬は「両者を一緒に扱うことを正当化するような関係をもつ」が、それらは異なるものでもあり、「両者が名前を共有するのは不幸なことである」と言われてきた[8]。一部の論者は両者を並べて扱いつつ、それらがいかに異なるかを強調する[12]。一部の論者は「滑り坂」という用語を、ある種の議論を指して用いるが他方には用いない、しかしどちらかについては一致を見ていない。一方、両者を指して用いる論者もいる。たとえば次のとおりである。
- クリストファー・ティンデールは因果的型にのみ合致する定義を与えている。彼は次のように述べる。「滑り坂的推論は、提案された行為から否定的結果へと至る因果的連鎖の存在によって弁別される、結果からの否定的推論の一種である」[4]:185。
- メリリー・サーモンは、この誤謬を意味のある区別を引きうることを認識しそこなうものとして記述し、「ドミノ理論」もその光のもとで捉える[14]。
- ダグラス・N・ウォルトンは、滑り坂の本質的特徴は「制御の喪失」であり、これは決定的型の滑り坂にのみ合致する、と述べる。彼は次のように述べる。「ドミノ議論は、最初の出来事が起こると次の出来事へと至り、その後も同様に続き、ついには連鎖の最後の出来事が起こるような仕方で、各出来事が連鎖のなかで次のものを引き起こす出来事の連鎖をもつ。(中略)これは滑り坂論法とは明らかに異なるが、その一部とみなすことができ、それと密接に関連している」[15]。
隠喩とその代替
「滑り坂」の隠喩は少なくともキケロの論考『ラエリウス——友情について』(XII.41)にまで遡る。表題人物ガイウス・ラエリウス・サピエンスは、ガイウス・グラックスの選挙が迫るなか、共和政の衰退を記述するためにこの隠喩を用いている。「事はやがて進む。ひとたび滑り始めれば、それらは破滅の道を容易に滑り落ちるからである」[16]。
くさびの薄い端
ウォルトンは、今日「滑り坂論法」と呼ばれるものを記述した非形式論理学の最初の書き手として、アルフレッド・シジウィックが評価されるべきだと示唆している[7]:275。シジウィックは1910年に次のように書いている[17]。
われわれはこれをしてはならない、あれをしてはならない、としばしば言われる。なぜならば、もしそうすれば、明らかに不合理あるいは誤っている何か別のことを、論理的にもなさざるをえないことになるからである、と。ひとたびある進路をとり始めれば、われわれがどこで一貫性をもって止まれるかは分からない。とくにどこかで止まる理由はないことになり、われわれはみなが望ましくない、あるいは真ではないと同意するような行為や意見へと、一歩また一歩と導かれていくのである。
シジウィックはこれが「俗にくさびの薄い端への反対として知られている」と述べているが、今日では決定的滑り坂と分類しうるかもしれない。しかしくさびの隠喩は、不愉快な最終結果が最初の決定に伴う原理のより広い適用であるという考えも捉えている。これは決定的滑り坂のしばしばの特徴であり、その漸増的本性によるものだが、因果的滑り坂には欠けているかもしれない。
ドミノの誤謬
T・エドワード・デイマーは著書『誤った推論を攻撃する』のなかで、他の論者なら因果的滑り坂と呼ぶであろうものを記述しているが、次のように述べている[18]:135。
このイメージは誤謬の性格を理解するうえで洞察に富むものかもしれないが、出来事のあいだの因果関係の本性についての誤解を示している。あらゆる因果的主張は別個の議論を要請する。それゆえ、見出される「滑り」は、論者の不器用な思考のうちにあるだけである。論者は、因果的に説明されたある出来事が、別の出来事あるいは一連の出来事の説明として役立ちうるという十分な証拠を与えそこなっているのである。
その代わりに、デイマーはこれを「ドミノの誤謬」と呼ぶことを好む。ハワード・カハーンは、誤謬のドミノ版が流行らなくなったのは、それがドミノ理論——アメリカ合衆国がベトナム戦争に関与する根拠——と結びついていたからであり、米国はその戦争に敗れたが、「主として倒れているのは共産主義のドミノである」と示唆する[18]:84。
堤防決壊
フランク・ザリガーは「ドイツ語圏では堤防決壊(Dammbruch)という劇的なイメージが優勢のように見えるが、英語圏では滑り坂論法と語ることが多い」と指摘し[19]:341、「ドイツ語の文献では、堤防決壊論法と滑り坂論法は広く同義として扱われている。とくに英語の文献から導出された滑り坂論法の構造的分析は、堤防決壊論法に直接転用されることが多い」[19]:343。
二つの隠喩のあいだの違いを探究するなかで、ザリガーは、堤防決壊では最初の行為が明らかに前景にあり、結果生じる出来事へと急激な動きがあるのに対し、滑り坂の隠喩では下降の滑りが最初の行為と少なくとも同等の重要性をもっており、それは「決定者が参与者として、自身の連続的な(誤った)決定の重みの下で、不可避に下方へ滑っていく、よりゆっくりとした『一歩また一歩』の過程の印象を伝える」と論評する[19]:344。これらの違いにもかかわらず、ザリガーは二つの隠喩を同義として扱い続ける。ウォルトンは、両者は比較可能であるものの、「堤防決壊の隠喩には、最初の行為から伴う制御喪失とともにグレーゾーンをへて破滅的災害という究極的結果に至る、一連のステップという本質的要素がない。これらの理由から、堤防決壊論法と滑り坂論法のあいだに区別を引くことを提案するのが最善と思われる」と論じる[15]。
その他の隠喩
エリック・ロードは次のように指摘する[20]:1470。
論者たちはこの大まかな形をもつ議論を指すのに数多くの異なる隠喩を用いてきた。たとえば「くさび」あるいは「くさびの薄い端」、「ラクダの鼻」あるいは「テントの中のラクダの鼻」、「恐怖の行進」(parade of horrors)あるいは「恐怖の連鎖」(parade of horribles)、「ドミノ」、「茹でガエル」、「これは雪だるま式に大きくなる」(this could snowball)などである。これらの隠喩はすべて、一つの実践あるいは政策を許すことが、他の一連の実践あるいは政策を許すことへとわれわれを導きうる、と示唆している。
ブルース・ウォーラーは、これを「恐怖の連鎖」(parade of horribles)論法と呼ぶことが多いのは法律家であり、政治家は「テントのなかにラクダの鼻が」を好むようだ、と述べる[21]:252。
ローラ・ジョッフェ・ヌメロフとフェリシア・ボンドによる1985年のベストセラー児童書『もしもねずみにクッキーをあげると』(英語: If You Give a Mouse a Cookie)は、近年の世代に対して滑り坂の一般的観念を普及させた。
滑り坂論法の定義的特徴
何が真正な滑り坂論法を構成するかについて意見の相違があることを考えれば、それらが定義される仕方に違いがあるのは当然である。ロードは「すべての SSA(滑り坂論法)は特定の特徴を共有するが、それらは構成員のすべてが同じ形式を共有する議論のクラスではなく、関連する議論の家族である」と述べる[20]:1476。
さまざまな論者[22][23][20]が、これらの異なる種類の滑り坂についての一般的分類を生み出そうと試みてきた。他の論者は、滑り坂論法の多様性を包含する一般的な定義を与えてきた。ユージーン・ヴォロックは「滑り坂の最も有用な定義は、あなたが魅力的に感じうる決定Aが、あなたが反対する決定Bを他者にもたらさせる確率を実質的に上昇させてしまうあらゆる状況をカバーするものだと思う」と述べる[24]:1030。
滑り坂が因果的であると主張する者たちは一般に単純な定義を与え、いくつかの適切な例を提供し、おそらくはその議論が道理にかなったものか誤謬かを決定する難しさについていくらかの議論を加える。滑り坂の詳細な分析の大部分は、真正な滑り坂は決定的種類のものであると主張する者たちによってなされてきた。
ロードは、SSA が構成員すべてが同じ形式を共有する単一クラスの議論ではないと主張したうえで、次のような共通の特徴を示唆している[20]。
- 介在する漸進的なステップの連鎖。
- 坂には恣意的でない停止点がないという考え。
- 考察されている実践それ自体は反対の余地のないものであるという考え。
リッツォとホイットマンはやや異なる特徴を同定する。彼らは次のように述べる。「滑り坂論法のパラダイム事例は存在しないが、すべての滑り坂論法に特徴的な特徴がある。滑り坂論法の鍵となる構成要素は三つである[2]。
- 初期の、見かけ上受け入れ可能な議論および決定。
- 「危険な事例」——明らかに受け入れ難い、後の議論および決定。
- 初期の議論を受け入れ初期の決定を行うことが、後の議論を受け入れ後の決定を行う可能性を上昇させる、「過程」または「機構」。」
ウォルトンは、これら三つの特徴があらゆる滑り坂に共通するであろうことに注意するが、「機構」の本性についてはもっと明確さが必要であり、滑り坂論法と否定的結果からの議論とを区別する仕方も必要である、と反論する[7]:275。
コーナーらは滑り坂が「四つの異なる構成要素」をもつ、と述べる。
- 最初の提案 (A)。
- 望ましくない結果 (C)。
- (A) を許すと将来 (C) の再評価へと導くことになるという信念。
- この信念にもとづいて (A) を退けること。
「滑り坂に潜むとされる危険は、現時点では受け入れ難い提案 (C) が(さまざまな心理学的過程によって——たとえば Volokh 2003 を参照)将来において受け入れ可能と再評価されるであろうという恐れである」[25]。
ウォルトンは制御の喪失がなければならないという要件を付け加える。彼によれば四つの基本的構成要素がある[15]。
一つは最初のステップ、すなわち考察されている行為または政策である。二つ目はこの行為が他の行為に至る連鎖である。三つ目は連鎖に沿った、いわゆるグレーゾーンないし不確定領域であり、ここで行為者は制御を失う。四つ目は連鎖の最後の破滅的結果である。考えとしては、当の行為者が最初のステップを踏み出すやいなや、彼は連鎖をつうじて押し進められ、制御を失い、ついには破滅的結果に到達することになる。これらの構成要素のすべてが典型的に明示されているわけではない……。