1910年(明治43年)、大分県速見郡別府町(現在の別府市)に生まれる[1]。京都高等工芸学校を卒業後、技師として朝鮮総督府に採用された[1]。
戦後の引き揚げで大分に帰郷し、1950年(昭和25年)に大分県工業試験場技師となるが、この年に開催された第3回大分県民体育大会を記念して制定された「大分県民体育の歌」で作曲を手掛けている[3]。1953年(昭和28年)、ラジオ大分(現在の大分放送)開局に伴い製作課長に就任[1]。その後、東京支社勤務を経て本局編成部長に至り、大分県内を中心に校歌や社歌その他の団体歌、新民謡を数多く作曲した[2]。
1996年(平成8年)10月31日死去[2]。享年87(満86歳没)。