幼い頃から歴史や伝記を学び[1]、文章生に補せられる[2]。しかし、長く対策に及第できず文章生のまま、清和朝初頭の貞観2年(860年)41歳にして二世王の蔭位により従四位下に直叙された。
しばらく散位であったが、貞観5年(863年)大学頭に任ぜられる。大学頭在任中、貞観8年(866年)の高山祭使や[3]、貞観10年(868年)の文徳天皇田邑陵で発生した野火に伴う陵への使い[4]など臨時の使者を務めている。その後、従四位上・民部大輔に叙任された後、貞観17年(875年)には雨乞い等のために神功皇后陵への使者も務めた[5]。
陽成朝の元慶6年(882年)4月28日卒去。享年63。最終官位は散位従四位上。