潘好礼
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若いころ同郷の孟温礼や楊茂謙と莫逆の友となった。礼を好んで明経に及第し、上蔡県令に任じられた。統治の成績を挙げて、監察御史に抜擢された。部属の罪に問われて、芮城県令に左遷された。侍御史に任じられ、岐王府司馬に転じた。母が死去すると、好礼は辞職して喪に服した。服喪を中断して官につくよう勅命が下っても、固辞して故郷を出なかった[1][2]。
開元3年(715年)、邠王府長史に転じた。まもなく邠王李守礼(章懐太子李賢の子)が滑州刺史として出向すると、好礼は邠王府司馬を兼ね、知滑州事をつとめた。李守礼が遊びに出かけようとすると、好礼は諫めて止めた。のちに李守礼が鷹や犬と家人たちを率いて狩猟に出かけると、好礼は道を遮って帰還を求めた。李守礼が聞き入れないでいると、好礼は馬の前に横たわり、「今はちょうど農作の月であるのに、王はどうして不良少年や犬や馬を率いて農作物を踏みにじろうとするのですか。楽しみをほしいままにして人を損なう前に、この司馬めを踏み殺していきなさい」と呼ばわった。李守礼は恥じ入ってかれに謝り、帰還した[1][3]。
ほどなく好礼は豫州刺史に転じると、統治に励んで休息せず、細かい事務まで口出しした。民衆と官吏はかれの清廉厳正さをはばかり、細かい詮索を嫌った。かれの子が明経の試験を受けるために帰郷したいと求めると、好礼は自らその子を試験した。五経の解釈に通じていないとみると、州の官吏を集めてその子に枷をつけて鞭打ち、州門に立たせて民衆の前にさらした。まもなく好礼は事件に連座して温州別駕に左遷され、死去した[1][3]。