澄川道男
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ペリュリュー島における残留日本兵34名投降の功績
1947年、澄川少将はトラック島より移送されグアム島で抑留中、ペリュリュー島に残留の日本兵の投降への説得を打診されこれを受諾(身柄の保証と戦犯扱いをしないという約束と引き換えだったともいう)。[3]。ペリュリュー島に赴きまず3月23日に「ペリュリュー日本人諸君へ」「ペリュリュー島残存の日本軍部隊ニ告グ」という2種の文書を配布したが反応は無かった。3月31日に再度「再度ペリュリュー島残存の日本軍将兵ニ告グ」という文書を配布し、ジャングル内をハンドマイクを持って呼びかけに回った。この時は日本兵との接触はなかったものの、文書は日本兵に回収されており、日本兵の間に微妙な心境の変化をもたらしていた。彼らはアメリカ軍から奪取した物資や手作りの生活用品を用いながら2年近く洞窟内で生きながらえていたが、文書に反応した兵士の1名(土田喜代一)が4月2日に脱走し米軍に投降した。[4]残りの者たちはかたくなに投降を拒否していた。澄川少将は一計を案じ、投降した日本兵から聞き出した日本の住所にに連絡を取り、家族に投降を呼びかける手紙を書いてもらった。(100通以上が集まったとされる)。[5]その手紙を持ち、投降した日本兵の案内で彼らが潜んでいる洞窟に向かった。米軍からは、今回の説得が失敗すれば洞窟に火炎放射器を撃ち込み日本兵を掃討すると告げられており、[6]。文字通り最後のチャンスであったという。洞窟の前で手紙を読み始めると、しばらくして銃を構えた日本兵が出てきて声をかけてきたので、澄川少将は単身洞窟内に入り手紙を渡しながら彼らを説得した。やがて彼らは説得に応じて投降を決意し、4月22日に澄川少将の誘導により洞窟を出て米軍に投降した。その数34名。日本に復員した彼らは後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成している。ちなみに漫画「ペリュリュー楽園のゲルニカ」に登場する鬼塚少将は澄川少将をモデルにしている。[7]

