澤村源之助の切られお富
明治18年から明治24年にいたる短い期間が源之助の最初の全盛期であっただろうと作家の岡本綺堂は観察している。源之助といえば「水も滴るようなお女郎役者」として少年の頃の綺堂の記憶に刻みつけられていたのだ[1]。
三代目澤村田之助の芸を継承し、切られお富、うわばみお由、女團七、鬼神のお松、姐妃のお百、蝮のお市など悪婆とよばれる色気のある世話物の悪女役を得意とした。
これらの悪婆の芸は、五代目河原崎国太郎や九代目澤村宗十郎に受け継がれた。他に立役では『青砥稿花紅彩画』(弁天小僧)の弁天小僧菊之助、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)の新三、女形役では『籠釣瓶花街酔醒』(籠釣瓶)の八つ橋、『夏祭浪花鑑』の徳兵衛女房おたつ、『侠客春雨傘』の丁山(初演時に主演の九代目市川團十郎から特に指名を受けて例外的に歌舞伎座に出演して勤めた)、『天衣紛上野初花』(直侍)の三千歳などを勤めた。立役の弁天小僧菊之助に関しては彼の芸の後継者の1人である尾上多賀之丞をして「『白浪五人男』の弁天なんかこりゃ飛び抜けてましたね。私はまあ、先輩に聞いたんですけれど、五代目(菊五郎)よりいいんじゃないかって話でしたよ。間合いなんかはね、これはとても五代目だって真似ができないって。」「そのまた後にうちの師匠(六代目菊五郎)の弁天小僧を見ましたけど、やっぱり、どうひいき目に見ても田圃さんほどいいとは思いませんでした。」[2]と絶賛する程の出来栄えだったと証言する程だった。
また『夏祭浪花鑑』の徳兵衛女房おたつ役では、三代目中村歌六から大阪滞在中に教わった「妾がほれているのは顔やない」と胸を叩き「ここでござんす」と見得を切る型を披露してその腕前を激賞されて以来坂東秀調が演じて来た型を凌駕して現在の主流に定着させた他、初代市川左團次と共に黙阿弥の書いた三人吉三巴白浪を復活上演して大当たりを取り現代にまで伝わる演目として残す等、現在の歌舞伎にも大きな影響を及ぼしている。
国文学者の折口信夫は『役者の一生』(昭和17年・1942)で源之助の芸風を分析し、三代目田之助の死で絶えかけた悪婆の芸を「一時、間に合わせに源之助がさせられたのだが、それが、源之助の役柄を決定してしまったのであった。こうして源之助は人々の渇望に応えて華々しく世に出たのであるが、それは又一面彼にとって不幸なことでもあった」と評し、持って生まれた美貌や芸力を十分に活かせなかったとしている。