澤田兼吉
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1903年3月、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)を卒業[1][2]。その後、1903年6月から1908年7月まで盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)の植物学教室と図書館に勤務、同教室の教授だった山田玄太郎の助手として植物標本製作などの業務に従事する[1][2]。1908年8月より、同年6月に設置されたばかりの台湾総督府農事試験場(後に中央研究所農業部)に植物病理部技手として勤務、1910年より教育部技手、同年7月より図書館取扱主任を兼任、1920年より植物病理部主任心得を務める[1]。1921年3月に台湾総督府殖産局農務課に移り、植物検査に関連する業務を担当する。同年8月に台湾総督府中央研究所技手、農業部植物病理科勤務、さらに同年9月より台湾総督府殖産局植物検査所勤務となる。1922年9月に植物検査所勤務の任を解かれ、台湾総督府技手と殖産局農務課勤務を兼ねる[1]。
1923年4月から台湾総督府高等農林学校(台北高等農林学校、台北帝国大学の前身、現在の台湾大学)にて講師を務める[1]。1925年1月より台湾総督府特産課の職を兼任、同年9月より同校教授[1]。1931年9月から再び総督府中央研究所農業部(後に農事試験場)植物病理科に戻り、台湾の菌類ファウナに関する調査研究に従事する。同年10月には殖産局農務課に移り、病害虫に関する業務を担うが、1939年4月には農事試験場病理昆虫科に戻って台湾の菌類ファウナ調査に再び従事、1942年1月に依願して職を辞すまで同科に勤務した[1][2]。
1942年2月から3月まで台北帝国大学で司書として勤務、同年10月から1943年3月まで同大学理農学部講師、1年間の中断を挟んで1945年3月から農学部講師として勤務した。1945年8月の第二次世界大戦終結後も、同じく台北帝国大学で教鞭を執っていた植物病理学者の松本巍と共に同大学に留用される[1][2]。1947年5月に台湾から帰国、同年10月より盛岡農林専門学校で無給助手を務める。1948年7月より農林省林業試験場(現在の森林総合研究所)の青森支場好摩分場に助手として勤務する[1]。帰国後は若い頃に山田玄太郎と共に作成し、盛岡農林専門学校で保管されていた標本に加えて、自身で新たに採集したものを加え、東北地方の菌類フロラに関する研究を進めたが、その成果たる「東北地方菌類調査報告」の出版を待たずして1950年4月7日に脳溢血で急逝した[1][2]。
業績
澤田は生涯にわたって東北地方と台湾島において精力的に菌類のインベントリー調査を行い、同地から膨大な種数を記録した[2]。39年間に及ぶ台湾滞在時代の集大成である「台湾菌類調査報告」全11篇では2500種類を超える植物寄生菌類を記録し、没後に発表された「東北地方菌類調査報告」全7篇でも約1600種類の植物寄生菌類を報告した[2][3]。また、これらの研究活動のなかで500種近い新種記載を行うなど、東アジアにおける菌類分類学のパイオニア的な存在と言える[2][3]。カエデ類に発生するうどんこ病菌の属名Sawadaeaなど、澤田に献名された学名も多い[2][3]。また、台湾滞在時代は司書官の任にあった期間も長く、1942年には書籍に発生する病虫害について総説的に纏めた『書病攷』を出版している[3]。