烏古廷 From Wikipedia, the free encyclopedia 出生: 1907年?死去: 1992年2月6日出身地: 清内モンゴル喀喇沁右旗職業: 軍人烏古廷 『最新支那要人伝』1941年プロフィール出生: 1907年?死去: 1992年2月6日出身地: 清内モンゴル喀喇沁右旗職業: 軍人各種表記繁体字: 烏古廷簡体字: 乌古廷拼音: Wū Gŭtíngラテン字: Wu Ku-t'ing和名表記: う こてい発音転記: ウー グーティンテンプレートを表示 烏 古廷(う こてい)は、中華民国の軍人。モンゴル族。後に蒙古聯合自治政府の蒙古軍幹部となった。『最新支那要人伝』によれば、李守信から最も信任が厚い片腕とされ、日本語にも通じていたという。[1] 1924年(民国13年)、熱河都統署副官となり、1929年(民国18年)、東北陸軍講武堂を卒業した。この他、中央訓練所でも学んでいる。1931年(民国20年)、熱河抗日義勇軍司令となった。その後も蒙古地方自治政務委員会委員をつとめている。[1][2] 熱河作戦中の1933年(民国22年)、湯玉麟の第5軍団隷下として豊寧に展開し日本軍と対峙していたが、増援に来た孫殿英の第9軍団が小競り合いを起こし警戒を余儀なくされていた中、李守信の寝返りに呼応して蒙古人兵800名を連れて満州国に投降。劉桂棠や方振武の軍勢を退け多倫を確保すると、10月に察東警備軍第4支隊長。翌1934年、日本に留学し、陸軍大学校で学んでいる。同年末、興安西省が成立すると、本間誠大尉を軍事顧問に迎え、林西警備軍司令に任ぜられた[3]。 1936年(民国25年)5月、蒙古聯合自治政府の成立とともにデムチュクドンロブ(徳王)を総司令、李守信を副総司令とする蒙古軍が成立すると、烏古廷は参謀長に任ぜられた。1940年(民国29年)時点でも、陸軍中将・参謀長の地位に引き続き就いている。[1][2]1945年(民国34年)3月の蒙古軍再編に際して参謀長を辞任した。[4] 蒙古自治邦崩壊後は国民政府への復帰を許され、軍事委員会委員長東北行営参事に任ぜられた。その後も、東北蒙旗復員委員会委員兼熱蒙保安隊前進指揮所主任をつとめている。[2] 1964年9月、日本モンゴル協会の発起人に加わる[5]。1992年2月6日、ロサンゼルスにて死去[6]。その時点では日本モンゴル協会顧問を務めていた[7]。 注 1 2 3 東亜問題調査会編(1941)、5頁 1 2 3 劉主編(2005)、270頁 ↑ 内田 1984, p. 22. ↑ 郭主編(1990)。 ↑ 春日 1988, p. 389. ↑ 柳下 1992, p. 99. ↑ 社団法人日本モンゴル協会 1992, p. 96. 参考文献 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。 内田勇四郎『内蒙古における独立運動』1984年10月。NDLJP:12180244。 春日行雄『ウランバートルの灯みつめて五十年』モンゴル会、1988年。 『日本とモンゴル』第26巻第2号、社団法人日本モンゴル協会、1992年3月。 柳下良二「烏古廷将軍の逝去を悼む」『日本とモンゴル』第27巻第1号、社団法人日本モンゴル協会、1992年9月、99-100頁。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 Related Articles