烏震

From Wikipedia, the free encyclopedia

烏 震(う しん、生年不詳 - 927年)は、末から五代十国時代にかけての軍人本貫冀州信都県[1][2]

幼くして父を失い、自ら郷校に学んだ。経書史書を渉猟し、とくに『春秋左氏伝』をたしなみ、詩を作るのを好んだ。弱冠にして従軍し、趙王王鎔の下で鎮州隊長となった。功績により部将に昇り、符習とともに晋王李存勗の黄河への征討に従い、兵士たちの心をつかんだ。天祐18年(921年)、張文礼が王鎔を殺害したと知ると、烏震は泣いて報復を志願した。符習に従って張文礼を討った。張文礼が烏震の母と妻子10人を捕らえて烏震を誘ったが、烏震は顧みることなく、鎮州城の攻略を急いだ。張文礼は怒って、烏震の家族の鼻を割り腕を断ち、殺さずに軍門にさらした。見る者は正視に耐えなかった。烏震は憤激して、身を矢石にさらして軍の先頭に立った。鎮州が平定されると、烏震は功績により深州刺史に任じられた[3][2]。天祐19年(922年)、趙州刺史となった[4]。河北でひとり統治の名声があり、易州刺史に移され、北面水陸転運使を兼ねた。契丹が北辺を侵犯し、漁陽県の道がふさがると、烏震は軍を率いて食糧を運搬し、三度薊門に入った。冀州刺史に転じた。天成2年(927年)、河北道招討副使に抜擢され、寧国軍節度使を遥領し、房知温に代わって蘆台に駐屯することになった。蘆台に到着すると、鄴都・奉節などの軍数千人が反乱を起こし、烏震は引き継ぎを受けないうちに殺害された。太傅[5]の位を追贈された[6][2]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI