ゴーティエ・サンザヴォワール

From Wikipedia, the free encyclopedia

ゴーティエ・サンザヴォワールフランス語: Gautier Sans-Avoir1096年没)とは、隠者ピエールとともに民衆十字軍(諸侯や有力貴族が遠征を開始するはるか前に、第1回十字軍の先遣隊として出発した十字軍遠征部隊)を率いた指導者の一人である。

出生 11世紀
フランス王国
父親 ユーグ・サンザヴォワール(?)
概要 ゴーティエ・サンザヴォワール Gautier Sans-Avoir, 民衆十字軍の指導者 ...
ゴーティエ・サンザヴォワール
Gautier Sans-Avoir
トルコ軍による民衆十字軍の虐殺(『海外の征服(Passages d'outremer)』のセバスチャン・マメロによる写本、ジャン・コロンブ画、フランス国立図書館所蔵)

民衆十字軍の指導者

出生 11世紀
フランス王国
死亡 1096年10月21日
キボトシュの戦いで戦死
ニカイア付近)
父親 ユーグ・サンザヴォワール(?)
テンプレートを表示
閉じる

出自と家族

彼の出自は正確には分かっていない。歴史家のジョゼフ=フランソワ・ミショーフランス語版は、ラングル近郊のノワイエフランス語版村の出身であるとしているが、この主張は資料による裏付けが不十分であり、考慮に入れることはできない[1]ギベール・ド・ノジャンフランス語版は、彼を「セーヌ川の向こう側で生まれた」と記している。一般的には、ポワシーの領主であったゴーティエの甥であり、おそらくボワシー=サンザヴォワールフランス語版村の出身と考えられている[2]。彼は、1058年にムラン伯フランス語版ガレラン3世フランス語版の勅許状に証人として名を連ねているユーグ・サンザヴォワールの子であり、1096年に十字軍に参加し1102年5月に第2次ラムラの戦い英語版で戦死したギヨームおよびシモン・サンザヴォワール兄弟の兄弟にあたるとみられる[3]

生涯

クレルモン教会会議におけるウルバヌス2世の呼びかけを締めくくった言葉「Deus vult !」(アルフォンス・ド・ネヴィル画、1883年)[4]

ゴーティエはフランスのポワシー領主の次男であり、そのため自身の領地(知行)を得る見込みのない、貧しい「持たざる騎士(サンザヴォワール)」であった。隠者ピエールの宗教的な情熱に感銘を受けた彼は、諸侯や貴族たちが本格的な遠征軍を組織するのを待つことなく、神に身を捧げることを決意した。彼の情熱と焦燥感は凄まじく、この偉大な説教者ピエールの歩みの遅さに耐えかねるほどであった。彼は巡礼者の中でも特に決意が固く戦闘意欲の高い者たちを集め、武器を持ちそれを扱える者たちを呼び集めて先頭に立った。彼は何よりもまず戦人であった。彼は1万から1万2000人からなる十字軍の軍勢を統制し、組織化した。そして、彼らを統率し規律を守らせるために、エタンプのテュルパン(Turpin d'Etampes)といった指揮官たちを見出していった。略奪は厳禁とされ、「聖十字架の同志たち」のような悪党集団でさえ、この禁止令に従った。

1095年、教皇ウルバヌス2世クレルモン教会会議で十字軍を呼びかけると、あらゆる国、あらゆる社会階層のキリスト教徒たちが衣服に赤い十字を縫い付け、ムスリムの支配から都市を解放するためにエルサレムへの巡礼に出発した。その熱狂ぶりは、多くの人々が旅に必要な武器や資金を調達するために、自身の財産を売却したり抵当に入れたりするほどであった。貴族や民衆は、フランスイタリア南部、ロレーヌブルゴーニュフランドル英語版などから出発し、いくつかの船団や隊列に分かれて急速に移動を始めた。

ゴーティエ・サンザヴォワールは諸侯たちの軍勢よりもはるか前に出発し、聖地を目指す農民たちに同行した。彼と隠者ピエールはフランス人からなる民衆十字軍の先頭に立ち、1096年4月12日ケルンに到着した。ピエールはケルンに留まってドイツの貴族たちに十字軍の説教を行ったが、ゴーティエはただちにエルサレムへ向かうことを望む十字軍士たちの先頭に立った。彼はこれらの者たちと8人の騎士を伴い、1096年4月15日にケルンを発ち、ドナウ川に沿って進んだ[5]5月21日にはハンガリー王国の国境に達し[6]ビザンツ帝国との国境であるベオグラードに至るまで、ハンガリー領内の通過は紛争なく行われた。しかし、ベオグラードの総督は十字軍の受け入れに関する指示を何も受けていなかったため、皇帝からの指令が届くまで彼らの市内への立ち入りを拒否した。これにより、十字軍士とベオグラードの兵士との間で衝突が発生した。さらに不幸なことに、ゴーティエの部下のうち16人が、ハンガリーの村であるセムリンの市場で盗みを働いているところを捕らえられた。彼らは鎧を剥ぎ取られ、6月11日頃に絞首刑に処された。最終的に、十字軍はニシュまでビザンツ領内を進むことを許可され、そこで補給を受け、護衛を伴ってコンスタンティノープルへ向かい、7月20日に到着した[5]

ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスは、彼らに対して諸侯たちの十字軍を待つよう助言し、8月1日にはピエールが率いる十字軍も彼らに合流した。しかし、多数の十字軍士たちの不規律により、コンスタンティノープル郊外での略奪行為が始まってしまった。そのため皇帝は8月7日、十字軍のボスポラス海峡通過を組織し、海峡のアジア側、セルジューク朝が保持するニカイアの町から約30キロメートルの場所に位置するキボトスフランス語版の陣営を彼らに割り当てた[7] 。しかし、巡礼者たちは諸侯たちの到着を待つ代わりに、この頃十字軍内での威信を失っていたゴーティエやピエールの制止を無視して、セルジューク支配下のの農村を略奪し始めた。隠者ピエールは十字軍の指導者としての支持を失い、皇帝に助言を求めるために定期的にコンスタンティノープルへ通うようになった。ゴーティエは陣営に留まったが、イタリア人やドイツ人の十字軍士の一部はルノーという男を指導者に選び、ニカイア方面へ進軍してクセリゴルドンを占領フランス語版した[8]

セルジューク朝による民衆十字軍の虐殺の様子。ジャン・コロンブフランス語版画(セバスティアン・マムロフランス語版著『海外の遠征(fr:Passages d'outremer)』より、フランス国立図書館所蔵)

しかし、ルーム・セルジューク朝のスルタンであるキリジ・アルスラーン1世は城を奪還し、イスラム教への改宗を受け入れた防衛者を奴隷とし、またそれを拒否した者を虐殺した[9]。その後、スルタンは十字軍をキボトスの陣営からおびき出すためにスパイを送り込み、ルノーがニカイアを占領したが戦利品を分配する気がないという噂を流させた。ゴーティエ・サンザヴォワール、テックのゴーティエ(Gautier de Teck)、テュービンゲン伯ドイツ語版ら500人の騎士に率いられた、約2万5000人の十字軍士の大部分がニカイアに向けて出発した。しかし、わずか3キロメートル進んだところで、待ち伏せしていたセルジューク軍の襲撃を受けた。ゴーティエ・サンザヴォワールは、鎧に7本の矢を突き立てられて戦死した。2万人が虐殺され、生き残った者の大半は奴隷にされた。キボトスの陣にたどり着くことができたのはわずか3000人であり、彼らはコンスタンティノープルへと避難を強いられた。

後世の評価

イル=ド=フランスを発ってからニカイア近郊での戦死に至るその時までの十字軍の全行程において、ゴーティエ・サンザヴォワールは勇気、名誉、そして謙遜の模範と見なされていた[10]

この名もなき無私の騎士の姿は、中世の騎士道の理想の象徴となり、後の軍事修道会における「修道士=戦士」の原型となった。彼の死から20年余りが経過した1118年、この理想は中世で最も有名な軍事修道会であるテンプル騎士団の創設を支える柱の一つとなったのである[11]

脚注

参考文献

関連項目

Related Articles

Wikiwand AI