フランス王国
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フランス王国の起源はフランク王国に遡り、「フランス王国」の名も「フランク王国」の発音が変化したものである。また、西フランク王国とフランス王国は同一の王国を指す歴史学上の別名であり、一般にはユーグ・カペーが西フランク国王に即位した987年以降の西フランク王国を指して「フランス王国」と呼び、それ以前のフランス王国を指して西フランク王国と呼ぶ。
これを前提とすると、フランス革命による1792年の王政廃止まで約800年間、さらに1848年にオルレアン朝が倒れて再度王政が廃止されるまで、第一共和政・第一帝政期(1792年 - 1814年、1815年)を挟み、約840 - 860年間存続したことになる[1]。
歴史
カロリング朝
フランス王国は、かつては西フランク王国と呼ばれていた。現在では、カロリング朝時代の西フランク王国のみを指して西フランク王国と呼び、カペー朝以降の西フランク王国をフランス王国と呼び分けることが多い。カロリング朝の下における西フランク王国については、西フランク王国を参照[2]。
カペー朝

カロリング朝が断絶したあと、987年に西フランク国王ロベール1世(ロベール家)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーが西フランク国王に選ばれ、カペー朝(987年 - 1328年)が成立した。成立当初は権力基盤が非常に弱くパリ周辺のイル=ド=フランスを押さえるのみであったが、フィリップ2世やフィリップ4世の時代に王権を拡大させ、イングランドやローマ教皇の勢力に対しても優位に立った。1328年まで15代の王が続き、またブルボン朝に至るまでフランス王国の歴代の王朝はみなカペー家の分族から出た[1]。
ヴァロワ朝
カペー朝断絶後、カペー家の支流ヴァロワ家からフィリップが即位し、ヴァロワ朝(1328年 - 1589年)が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。後期にはイタリアへと領土的野心を向け、1494年からイタリア戦争を開始したが、ハプスブルク家によって挟撃され敗北した。1589年までの間に13代の王が続いた。なお、ルイ12世以降をヴァロワ=オルレアン朝、フランソワ1世以降をヴァロワ=アングレーム朝とも呼ぶ。
ブルボン朝

ヴァロワ朝が断絶し、カペー家の別の支流ブルボン家のアンリ4世がフランス国王として即位したことでブルボン朝(1589年 - 1792年、1814年 - 1830年)が成立した。ルイ14世の時代には領土拡大などの成果を上げたが、国民に重税を課したため、フランス革命を招くことになった。
フランス革命によってフランス王国が一時滅亡
ブルボン家はフランス革命の中で憲法を制定するも1792年に王位を追われた。

なお、ルイ16世はギロチンにより処刑され、ルイ16世の子女( マリー・テレーズ、ルイ・ジョゼフ、ルイ17世、ソフィー)は監禁生活を送っていたため、子孫を残さなかった。その結果、ルイ16世の系統は断絶してしまった[3]。
ブルボン朝(復古王政)
ナポレオン1世の失脚とナポレオン戦争の終結により、百日天下の期間を除きブルボン朝が復古した。極端な反動政治も見られ、社会も騒擾・擾乱があり不安定であったが、アンシャンレジームの絶対王政ではなく立憲王政の政体であった。
オルレアン朝
七月革命によりブルボン家は再び王位を追われ、新たにブルボン家の支流であるオルレアン家のルイ・フィリップが即位し、オルレアン朝(1830年 - 1848年)が成立した。ルイ・フィリップの王政は七月王政とも呼ばれる。ルイ・フィリップは内閣制度を導入して、立憲王政の確立やブルジョワジーが主導するフランス経済の発展を目指した。
再び革命が起き、完全に滅亡
貧富の差の拡大などもあって国民の不満は爆発し、二月革命が起こった。この革命で第二共和政、次いで第二帝政が成立し、長きにわたったフランス王国とフランスの王政は完全に滅亡する事になった[4]。ただし、1871年の普仏戦争敗戦後、王政復古の機会があった(「アンリ・ダルトワ」、「フィリップ (パリ伯)」を参照。)。
サリカ法
領土

フランス王国は領土の拡張が激しい時代であった。 13世紀以前のフランス王国のごく一部だけがフランク王の支配下にあったとされている。




北部では、ノルマンディー公国の形成につながる海賊の侵入があった。西部では、12世紀にイングランド王国を含むアンジュー帝国を設立したことにより、アンジュー帝国の君主はヨーロッパで最も強力な権力者としての地位を確立していた。その結果、アンジュー帝国とフランスのカペー家王の間のフランスの分割は百年戦争につながり、フランスは15世紀半ばまでにのみこれらの領土の支配権を取り戻した。
