熊田恰
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生涯
熊田恰は、文政8年(1825年)1月20日、備中国松山藩領高梁本丁(現・岡山県高梁市内山下付近)に生まれた。父は松山藩年寄役で、新影流剣術の師範を務めた熊田武兵衛矩清である[1]。恰は三男であったが、兄たちが早世したため家督を継ぎ、熊田家八代目となった。 幼少より武家としての教育を受け、学問は藩校有終館に学び、剣術は伊予国宇和島藩で修行した。この修行時代、試合中に相手の竹刀の先皮が破れて眼を負傷し、隻眼となったが、これに屈することなく剣技と精神修養に励んだという。帰藩後は近習として仕え、のち物頭・番頭を経て、執政へと昇進した。
弘化5年(1848年)、父の死去により剣術師範として門弟の指導にあたりつつ藩政に参与し、慶応2年(1866年)11月には年寄役に就任、藩政の中枢を担う立場となった。
慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、藩主板倉勝静の親衛隊長として大坂に在陣した [2]。戦況悪化により藩主が徳川慶喜に従って江戸へ退いたのち、恰は帰藩を命じられ、藩兵158名を率いて海路玉島(現・倉敷市)に帰着した。
しかし、松山藩は旧幕府方であったため朝敵とみなされ、玉島は岡山藩兵によって包囲された。恰は、これ以上の戦闘が藩兵および町民に被害を及ぼすことを憂慮し、川田甕江らと協議のうえ、藩の恭順を示すため自らの死をもって事態を収拾する決断を下した。
慶応4年(1868年)1月22日、玉島柚木邸(西爽亭)において自刃。享年44。介錯には親族の熊田大輔があたり、その刀は藩主板倉勝静より「我と思え」と授けられた名刀正宗であったという。恰の自刃により、藩兵150余名は助命され、玉島の町も戦火を免れた。
死後、その忠節は広く称えられ、明治3年(1870年)には玉島の羽黒神社境内に熊田神社が建立された[3]。松山藩からは家老職が追贈され、家禄も加増された。また、岡山藩主池田茂政からは遺族に賞賛状と香花料が贈られている。
墓所は岡山県高梁市和田町の道源寺にあり、のちに旧藩主板倉勝静の篆額、川田甕江の撰文による「熊田恰頌徳碑」が建立されたた[4]。