陳氏が何年に入宮したかは不詳である。康熙61年以前には正式な冊封を受けておらず、「庶妃」の位にとどまっていた。康熙50年(1711年)正月11日、皇二十一子・慎恪郡王胤禧を出産した。
康熙61年(1722年)、康熙帝が崩御すると、同年12月、新たに即位した雍正帝は先帝の妃嬪の一部を尊封し、「いま、かつて皇子を出産したが冊封を受けていない者は、すべて貴人に封すべきである」と述べた。陳氏はこのとき「皇考倩貴人」に尊封されたとみられる[1]。
陳氏が乾隆帝から正式に「熙嬪」と尊号を授けられる以前、宮中では「倩嬪」と称されていた[2]。乾隆元年(1736年)6月2日、内務府総管は乾隆帝に対し、寧寿宮の4人の嬪の朝冠に用いる東珠について、花梨木の箱に収められた眼東珠の中から選び呈覧したい旨を上奏した[3]。同年12月、正式に「皇祖熙嬪」と冊封された。同年12月25日、寧寿宮の熙嬪が重病となり、北海五龍亭裏の一群の宮殿建築に移された。乾隆2年(1737年)正月2日、熙嬪は47歳で薨去し、その葬礼は康熙帝の端嬪董氏の例に倣って執り行われた。