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(さん、拼音: cuàn)は、魏晋南北朝時代に現在の雲南省に相当する地域に居住した民族。

後漢のころから爨氏は「南中大姓」の1つとされ、蜀漢では有力な「四姓五氏」の1つとみなされていた[1]爨習が曲靖盆地と陸良盆地を本拠とし、昆明盆地も勢力圏とした[2]東晋咸康6年(340年)、孟彦と霍彪が勢力争いで共倒れし、爨深が最も勢力を得るようになった[3]。爨氏は六朝の諸王朝から官職を得て、漢文化を積極的に取り入れた。「爨宝子碑」(405年)や「爨龍顔碑」(458年)などの過渡的な楷書体の漢文碑文も立てた。開皇17年(597年)には、昆州刺史爨翫史万歳の遠征を受けて敗れた。翌年にも反乱を起こして隋に降った。武徳元年(618年)、が建国されると、爨翫の子の爨弘達が許されて、昆州刺史の地位を得た。のちに南寧州都督にも就任し、勢力を回復した[4]

唐の時代、「烏蛮」系多数の東爨と「白蛮」系多数の西爨に区別されるようになった[5]。このうち西爨が通訳なしで漢族と会話ができるのに対し、東爨は通訳を何人も必要とし、「鳥語を喋る者」と言われた。中国の学会では、西爨の子孫の一部が現在の白族、東爨の子孫の一部が現在の彝族になったとしている。

脚注

参考文献

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