牛島春子
From Wikipedia, the free encyclopedia
以下は参考文献(多田、2009年)のpp.231 - 239による。
久留米市本町で洋品店を営む牛島丞太郎・あやめ夫妻の二女として生まれる。1927年、10歳年上の兄の影響を受け、処女作「合歓の花」を書く。1929年、久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)を卒業し、奈良女子高等師範学校を受験したが失敗。1930年、久留米の文芸誌『街路樹』に参加する。1931年に久留米の日本足袋(現在のブリヂストン)に就職。日本労働組合全国協議会(全協)専従者の勧誘に応じるが、専従者の軽率から組織が発覚し、半年で日本足袋を解雇される。
1932年、日本共産党に入党。1933年に逮捕される。1934年、福岡地方裁判所で懲役2年5か月の判決を受けるが、控訴。1935年長崎控訴院で懲役2年執行猶予5年の判決を受けた。1936年、牛嶋晴男と結婚して満州国に渡る。1937年、満州での第1作「豚」を書き第1回建国記念文芸賞の2等1席となる。(1等はない)この作品は勝手に「王属官」と改名された。1940年「祝という男」が芥川賞候補となる。1941年芥川賞次席となり『文藝春秋』に掲載される。
1944年には夫が召集され、1945年のソ連対日参戦と引き続く敗戦時には、幼児3人を抱え奉天、新京を転々とする。1946年、飯塚市にいた兄の家に、その後小郡の夫の生家に身を寄せる。1947年、夫の復員と共に西鉄小郡駅近くに転居し、執筆を続けた。1960年、取材を重ねた菅生事件に基づく『霧雨の夜の男 - 菅生事件』刊行。1980年には20号の油絵が新美術協会の「新美術展」に入選したこともある。
2002年12月26日、老衰で死去。
家族
芥川賞選考での評価
交友関係
作品
単行本
- 『霧雨の夜の男 - 菅生事件』1960年 鏡浦書房
- 随想集 『ある微笑―私のヴァアリエテ』1980年 創樹社
- 『牛島春子作品集』2001年 ゆまに書房
満州時代の作品と引揚体験
- 「豚」1937年 第1回建国記念文芸賞2等1席[7] 「王属官」と勝手に改題され「大新京新聞」に連載。
- 「雪空」1938年 『満州行政』に発表。
- 「祝という男」1940年 「満州新聞」に発表。1941年芥川賞次席となり、『文藝春秋』に掲載。
- 「張鳳山」1941年 『文學界』に発表。
- 「女」1942年 『芸文』に発表。
- 「笙子」1947年 『芸林間歩』に発表。
- 「ある旅」1951年 『九州文学』に発表。
- 「十字路」1952年 『寂寥派』に発表。
- 「知子」1954年 『芸林』に発表。
- 「アルカリ地帯の街」1956年 『新日本文学』に発表。
その他
- 「青の時代」1968年 夕刊フクニチ 58回連載した九州大学外伝
- 「あるメルヘン」1957年 『新日本文学』に発表。
参考文献
- 多田茂治『牛島春子の昭和史 満州・重い鎖』弦書房、2009年 ISBN 978-4-86329-024-2