犀川一夫
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1918年、東京に生まれる[1]。1944年6月、長島愛生園医療事務取扱となり、同年9月、東京慈恵会医科大学卒[1]。召集され東部第24部隊に入営し、1944年12月、陸軍軍医中尉に任官し、日中戦争に従軍[1]。1946年6月、復員し、愛生園に復帰して技官・外科医長を務めた[1]。愛生園では、らいの病理学、プロミンの治験に従事。次の論文に患者の写真が掲載されている[2]。1952年、東京慈恵会医科大学医学博士、論文の題は「癩の種々相に於ける末梢神経の病理組織斈的研究」[3]。
1960年、台湾痲風救済協会医務部長。1964年、WHO西太平洋地区「らい専門官」任用。1971年、琉球政府立沖縄愛楽園園長。1972年-1987年、国立療養所沖縄愛楽園長。復帰に伴って患者の強制隔離を定めたらい予防法が適用されるのに反対し、沖縄だけは在宅治療を続けることを国に認めさせた。1978年、沖縄で第19回日本らい学会を主催。「沖縄におけるらいの免疫学的研究」で桜根賞を受賞。1987年、同退官。2001年、患者側が全面勝訴したハンセン病国賠訴訟で、元患者側の証人として出廷し、国の隔離政策を批判する証言をした。2007年没。
1953年ラクノー会議
隔離主義に関して
- 犀川一夫は隔離主義に関して次の発言をしている。[5]
ハンセン病対策は、是非とも一般医療の場に組み入れられるべきである。ハンセン病を特別な病気として「隔離」によって対処している所に、世人のこの病気に対する一層の偏見を助長させている原因があるのではないだろうか。そして入園者もまた、心理的に人間性の回復や人間の自立への意欲をそがれてしまうのである。「隔離」をすれば、病者は怖れて隠れ、逆に外来で治療を始めれば、必ず病者は治療を求めてくる。このことは現実に私がどこの国でも同じように経験したことなのである。このことこそが、これからの頂を制する王道なのである。医療行政とは本来、医療人が歩む道を、正しい方向に向けることである。
著書・編書
- 『沖縄のらいに関する論文集』1979年、沖縄らい予防協会 那覇市
- 『打たれた傷』1982年 沖縄県ハンセン病予防協会 那覇市
- 『門は開かれて』1989年 みすず書房
- 『聖書のらい』1994年 新教出版社
- 『ハンセン病医療ひとすじ』1996年 岩波書店 東京都
- 『中国の古文書に見られるハンセン病』1998年 沖縄県ハンセン病予防協会 那覇市
- 『ハンセン病政策の変遷』 1999年 沖縄県ハンセン病予防協会 那覇市(288頁)
論文
- 沖縄におけるらいの疫学的変化(第1報)新患発生状況 レプラ43,53-62,1974.
- 沖縄におけるらいの疫学的研究(第2報)地域別疫学的状況 レプラ 44,150-162,1975.
- 沖縄におけるらいの疫学的研究(第3報)離島の疫学的研究 レプラ 46,1-7,1977.
- 沖縄におけるらいの疫学的研究(第4報)都市のらい レプラ、46, 8-13,1977.
- 沖縄におけるらいの外来治療の諸問題 レプラ,44,Vol.4. 1975.
他多数の論文がある。