犬童球渓
From Wikipedia, the free encyclopedia
熊本県球磨郡藍田村(現在の人吉市)生まれ[2]。本名は「犬童信蔵(いんどう のぶぞう)」というが、球磨川の渓谷に生まれたことから「球渓」というペンネームをつけた。1901年、熊本師範学校を卒業し、宇土郡網田尋常小学校に勤務する[3]。1905年3月、東京音楽学校甲種師範科を卒業し、兵庫県立柏原中学校(現在の兵庫県立柏原高等学校)に勤務する[4]。1906年に新潟高等女学校(現在の新潟県立新潟中央高等学校)、1908年に熊本県立高等女学校(現在の熊本県立第一高等学校)、1918年に人吉高等女学校(現在の熊本県立人吉高等学校)に赴任[2]。1943年、人吉市で自殺。
新潟高等女学校赴任中に訳した『旅愁』、『故郷の廃家』が明治40年(1907年)の「中等教育唱歌集」に取り上げられ、現在でも広く歌われている。犬童球渓はこれらの代表作も含めて、生涯に250曲ほどの西洋歌曲の翻訳作詞を残した。彼の訳詞の特徴として、英語からの直訳を嫌い、日本語らしい表現にこだわった点などが挙げられる。