本作は前作『デヴィッド・ギルモア』(1978年)と比べると、かなり音楽的、商業的な成功を意識した作りになっている。本作のレコーディングに当たっては、多彩なゲストが招かれている。プロデュースはギルモアと、ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』で一緒に作業をしたボブ・エズリンが行い、TOTOのジェフ・ポーカロ(ドラムス)、ピノ・パラディーノ(ベース)、スティーヴ・ウィンウッド、ジョン・ロード(キーボード)も参加している。また、ピート・タウンゼントもギルモアからのリクエストに応えて3曲の歌詞を書き下ろし、そのうち2曲が収録された[1]。
ギルモアは当時ソロ・アルバムを制作した理由について「僕はピンク・フロイドなしでやっていけるかどうか、それを知るためにこのレコードを出し、ツアーをやった」と語っている[2]。アルバムのプロモーションのために、ピンク・フロイドのポリシーとは対照的にマスコミに対してあらゆるインタビューにはほとんど応じ、MTVにもインタビューのほかにミュージック・ビデオを提供している[3]。
アルバムのプロモーションのため、1984年3月から6月にかけて、ヨーロッパを跨り、北米を駆けた大掛かりなコンサートツアーを行った。1984年4月30日のイギリスのハマースミス公演では、ニック・メイスンとロイ・ハーパーがゲスト出演もしている。この模様は、『David Gilmour Live 1984』 (日本未発売) に収録されている[4]。但し、この翌日のバーミンガム公演ではわずかに200人程度しか観客が集められなかった[4]。このことからも、必ずしもコンサートツアーが成功したとは言いがたかったが、アメリカにおいては、MTVでプロモーションしたことが幸いし、どうにかコンサートは黒字になったという[5]。
ギルモアがこのソロ活動をしたちょうど同じ時期に、ロジャー・ウォーターズもやはりソロアルバム『ヒッチハイクの賛否両論』を発表し、それに伴うコンサートツアーも行っているが、そのアルバムならびにコンサートの売り上げはギルモアと同様か若干下回る程度で、あまり芳しいものではなかった。