狩野探信 (守道)
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寛政5年(1793年)7月、部屋住みながら御目見え。寛政8年(1796年)父の隠居に伴い家督を継ぐ。この頃の鍛冶橋狩野家は、同じ奥絵師の木挽町狩野家や中橋狩野家と比べて明らかに劣勢であったが、文政8年(1825年)法眼に叙され、亡くなる前年の天保5年(1834年)御医師並になる。享年51。弟子に沖一峨、目賀多信済、深川水場狩野家の了承賢信、探水守常など。
探信守道は家を再興するため、祖先の狩野探幽に学び、その没骨的彩色法を復活させようとした。一方、江戸時代の狩野派が忌避していた風俗画も積極的に手がけ、浮世絵風の作品も残している。そのため現存する探信守道の作品は専ら大和絵で、僅かな水墨画の遺品も古画の模写が殆どである。