独島義勇守備隊
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大韓民国の初代大統領李承晩は、江戸時代の「竹島一件」、明治初期の太政官指令にある「竹島外一島」、第二次世界大戦後に竹島が連合国最高司令官総司令部訓令第677号(SCAPIN-677)および連合国最高司令官総司令部訓令第1033号(SCAPIN-1033/いわゆるマッカーサー・ライン)により日本の政治及び漁業の管轄からはずされたこと、などを根拠に日本に領有権がないと解釈、朝鮮戦争中の1952年1月18日、李承晩ラインを竹島を含む海域に設定して竹島(独島)領有を宣言した。
一方、日本は1905年1月28日に閣議決定により編入して竹島と命名し島根県 隠岐郡 五箇村に属させて、江戸時代以来の歴史的権原を近代的な国際法に沿った権原に置き換えている。サンフランシスコ講和条約においてもこの編入の正当性が認められ、日本が放棄する領域に竹島は含まれていない。李承晩ラインが宣言された10日後、日本は口上書によって韓国の竹島領有主張に抗議している。ここに竹島の帰属をめぐり日本と韓国の間で領土紛争が生じた(詳しくは竹島を参照)。
結成
活動
独島義勇守備隊は1953年4月20日、初めて竹島に駐在した。常駐ではなく、定期的な駐在である。同年6月27日、日本の巡視船2隻が来島して6人いた守備隊員を島から追い出し、日本領の標識を立てている。しかし、巡視船はそのまま引き上げたので、義勇守備隊が再び島に戻った。このことを聞いた李承晩大統領は慶尚北道警察に指示して迫撃砲1門と弾100発を義勇隊に支給させた。義勇隊はこのほか、M1小銃とカービン銃で全員武装していた。さらに直射砲1門も配備されていたとする説がある。
1954年4月21日日本の巡視船が来島したため交戦状態が発生し、巡視船1隻を撃沈したと主張しており、日本側の記録でも巡視船が発砲を受けて損害を蒙ったことは確認できるが、撃沈は確認できない。また日本側は発砲した組織を韓国「官憲」と認識していた。隊員が何らかの制服を着用していたためだろう。また守備隊はその後も日本巡視船との交戦があったと主張し、日本側記録でも1954年11月30日に日本巡視船が竹島から砲撃を受けたとする。
1954年、洪淳七隊長が東島の岩肌へ「韓國領」と彫らせる。
組織
義勇隊の組織は末期には次のようになっていた。隊長ホン・スンチョル、副官ファン・ヨンムン、第1戦隊10名、第2戦隊9名、普及隊2名、教育隊3名、後方支援隊4名、輸送隊4名である。普及隊(宣伝隊)には唯一の女性隊員として洪(ホン)隊長夫人パク・ヨンヒがいた。