猪木問答
From Wikipedia, the free encyclopedia
猪木の格闘技路線と度重なる現場介入、相次ぐ選手や社員の離脱
新日本の実質的なオーナーであった猪木[注釈 1]は格闘技団体UFOと新日本の対抗戦やPRIDE.10のエグゼクティブプロデューサーへの就任[10]、プロレスと総合格闘技の融合をテーマにした「INOKI BOM-BA-YE」(通称、猪木祭り)を主催し新日本の選手を投入[11][12]するなど格闘技路線へ傾倒。このように総合格闘技へ新日本の選手を参戦させていたが結果は芳しいものではなく、新日本所属選手への負担は心身ともに大きなものであった[13][14][注釈 2]。
なお、猪木は小川直也を新日本から切り離し手元に置いたこと[19]、更に橋本真也との対戦で東京ドームを都度満員[20][21][22]、テレビ中継では高視聴率を得た事で発言力を増してより一層格闘技路線を推し進めたとする見方がある[23]。
1998年4月27日、猪木は世界格闘技連合から改称した世界格闘技連盟(UFO)の設立を発表[24][25]。同時期に小川は新日本と年間契約を更新せずワンマッチ契約に切り替える[26]。同年6月5日には小川と当時新日本の社長だった坂口征二の小競り合いが発生、これにより坂口からは「会社、個人としてもUFOとの関係は白紙にしたい」との発言にまで至る[27][注釈 3]。表面的にはUFOと新日本の対立構図へとつながるが、小川をけしかけたのは猪木であり、その背景には水面下での猪木と反猪木派の派閥抗争があった[29]。 翌1999年1月4日には永島勝司の働きかけにより新日本とUFOの対抗戦が実現するが[30]、橋本vs小川戦(通称、1・4事変)[注釈 4]により改めて坂口(新日本)はUFOとの絶縁を宣言する[37][38]。 同年6月24日、坂口に代わり藤波辰爾の社長就任が発表される[5][注釈 5]。
2000年4月7日、橋本は引退をかけた小川戦で敗北[注釈 6]。同年10月9日、藤波戦で復帰を果たすが再復帰後はシリーズへの帯同を拒み他の選手との別行動を要望[43]。また前年の「1・4事変」以来、新日本への不信感[43]から年棒制でありながら長期欠場を繰り返し年に数試合しか行わなかった事で他の選手からの不満が高まっており[44]、同月23日には藤波の意向により新日本配下の別団体を発足し団体内独立という形で「新日本プロレスZERO」の設立が発表される[11]。しかし橋本は独断で会社登記を行った上に、新日本プロレスと全日本プロレスが互いに関係を深めていた時期[注釈 7]であるにも関わらず、全日本から選手らが大量離脱し設立されたプロレスリング・ノアと交渉を行った事が問題視され、同年11月13日には新日本は橋本に解雇を通達する[11][43][注釈 8]。後に選手と社員が橋本の後を追う形で退団、同年12月20日には橋本が新団体ZERO-ONEの設立を発表[11]、翌2001年3月に旗揚げ戦を行う[56]。
2001年5月頃には長州力が現場監督から退き、株主総会において決定した比較的若い世代を中心としたマッチメイク委員会が発足、タイトルマッチやシリーズのカード編成、企画立案を行うことになる[44][57]。しかし新日本のオーナーであり決定権者である猪木の意向にそぐわずカード変更が頻発する[58]。2002年1月には格闘技路線に反発した武藤敬司がマッチメイク委員会のメンバーを含む他の選手と社員らを全日本プロレスに引き抜く形で退団する[59][60][61][注釈 9]。
当日の模様
| FIGHTING SPIRIT 2002 開幕戦 | |
|---|---|
|
猪木問答が行われた会場 | |
| 情報 | |
| 主催 | 新日本プロレス |
| 開催日 | 2002年2月1日 |
| 観客数 | 6500人(満員)[63] |
| 都市 | 札幌市豊平区 |
| 会場 | 北海道立総合体育センター |
蝶野の呼びかけ
2002年2月1日、そのような混乱の最中、蝶野正洋ら他の選手たちは武藤の移籍について会社側から何の説明もないままシーズン初日を迎える[64]。
当日は新日本の上層部である猪木を始め藤波、長州力らが会場入り[注釈 10]しているにも関わらず、所属選手はおろか来場した観客への説明や記者会見などをする様子がなかったため、蝶野は猪木に対し発言を反故にされぬよう衆人環視のリング上で直接問いただす事を決める。猪木や選手たちには試合後リングに集まるよう伝えられたが具体的な内容などは全く伝えられていなかった[64][65]。
試合終了後、リング上に呼び出された猪木はまず武藤や馳浩[注釈 11]についてはどうでもよいと前置きした上で、企業運営に関わる幹部社員[注釈 12]が引き抜かれたことに怒りをあらわにする。
蝶野にも怒りについて同意を求めるかのように問いかけるが蝶野は(格闘技路線への不満の意味で)新日本のリングでプロレスをやりたいと答える。それに猪木は取り合うことなく引退時に披露したポエム「道」を交えつつ蝶野に事実上の現場監督の辞令を下す。現場を仕切る気など全くなく、ただ選手の窮状を訴えたかっただけの蝶野だが、会場の空気感や雰囲気から受け入れざるをえなくなり承諾を宣言する[14][65]。
その後、蝶野がリングサイドに集めていた中西学、永田裕志[注釈 13]、鈴木健想、棚橋弘至らをリング上へと促したところから猪木の問いかけ、通称「猪木問答」が始まる[69][70]。
猪木問答
アントニオ猪木(2012年頃) 猪木「おめえ(中西)は怒ってるか」
中西「怒ってますよ!」
猪木「誰にだ」
中西「全日に行った武藤です!」
猪木「そうか、おめえはそれでいいや」猪木「おめえ(永田)は」
永田「全てに対して怒ってます!」
猪木「全てってどれだい」
「言ってみろ。俺か、幹部か、長州か」
永田「上にいる全てです!」
猪木「そうか、奴らに気付かせろ」猪木「おめえ(鈴木)は」
鈴木「僕は自分の明るい未来が見えません!」
猪木「見つけろてめえで」(猪木から無言でマイクを向けられた棚橋)
棚橋「俺は新日本のリングで、プロレスを、やります!」猪木「まあそれぞれの思いがあるから、それはさておいて」
「おめえたちが本当に怒りをぶつけて、本当の力を叩きつけれるリングをお前たちが作るんだよ」
「俺に言うな!」
一連の流れに場内は爆笑[71]。経営者である猪木と不安を抱えた選手たちの意見は噛み合うこと無く、最後は猪木と会場にいた選手観客全員の「1,2,3,ダー!」の唱和と選手への闘魂ビンタ、握手で幕引きとなる[70][注釈 14]。
これにより抜けた穴を埋める形で蝶野が新日本の現場監督、マッチメイカーを上井文彦[注釈 15]が行う新体制[61]となり、責任者、担当者不在で全く手つかずの状態だった同年5月2日に行う予定の東京ドーム大会開催準備に着手する事になる[14]。
これら混乱の只中にあって、その原因である猪木は同年3月に以前から投資していた永久電機事業の記者会見を行う[76][注釈 16]。更に同年5月末には長州が退団[79]し永島勝司や他の選手らと後にWJプロレスを旗揚げ[80]。2003年には新日本の独自ルールによる総合格闘技戦「アルティメット・クラッシュ」[注釈 17]を行うなど新日本プロレスの混乱、迷走はなおも続く。
選手たちの心境
中西は咄嗟のことで何も考えられず「武藤です」と返答、なお前述の通り猪木は冒頭で武藤、馳についてはどうでも良いと前置きしている[17]。
永田は猪木が問いかけた怒りについてピンときておらず、それよりも不安のほうが大きかったが、猪木に「怒っているか」と問いかけられたからには怒りで返さざるをえず、かといって具体的な幹部個人やネガティブな報道を行うマスコミを名指しする訳にもいかず「全てに対して」「上にいる全て」となった [82]。
鈴木は「新日本の明るい未来が見えません」との旨を言うつもりでいたが噛んでしまい、まるで自分自身の不安を訴えるかのようになってしまった。この際、蝶野からリング上で「何か面白い事を言え」と言われたとの事だが蝶野はこれを否定している[69][83]。
棚橋(橋本や武藤から移籍の誘いを受けたがそれを断り新日本に残っていた[84])は、前者3人を踏まえて猪木からの怒りの問いには正解がなく「質問に答えたら負け」だと思い、格闘技路線への反発と皮肉を込めて自身の思いを伝えた[70]。