玉利親賢 From Wikipedia, the free encyclopedia 玉利 親賢(たまり ちかかた、1853年11月3日〈嘉永6年10月3日〉- 1916年〈大正5年〉8月24日)は、明治時代の海軍軍人(海軍中将)。位階および勲等、軍功は正四位・勲二等・功四級。 薩摩国鹿児島郡上竜尾町(現在の鹿児島県鹿児島市)に薩摩藩士の玉利甚兵衛の長男として生まれる。1869年に海軍兵学寮に入り、卒業後し士官候補生となる。1877年の西南戦争に従軍した。1881年、海軍少尉に任官した。1904年の日露戦争で海軍大佐となり日本公使館付武官としてロンドンに駐在した。アルゼンチンがアームストロング社に注文した軍艦がロシア帝国に売り渡されようとしていることを知ったため、独断で購入を決めた。これが後の日進、春日の2艦である。のちに海軍少将となり、1906年に南清艦隊司令官、1908年に大湊要港部司令官を務めた。1909年に海軍中将となり、馬公要港部司令官を務め、1911年に予備役に編入となった。大正5年8月24日卒去[1]。墓所は青山霊園。 親族 妻 のぶ(千田貞暁の長女)元治元年4月生 男 亮一 明治31年10月生 女 さだ 明治16年8月生 女 照 明治21年6月生 弟 喜造 弟 沖一誠(土木技師)[2] 脚注 ↑ コトバンク 玉利親賢 ↑ 人事興信録第4版 Related Articles