玉得博康
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人物
- 本職は中学校教諭である[3]。
- 本来は「空手に流派は不要」という無流派主義者であるが、「王統流」という名称は本土に空手を普及させる過程で「琉球王家を守ってきた伝統武術」という意味で便宜的に名づけたものである。
- 船越義珍については「船越義珍先生はナイファンチの良さが分かるのに約11年かかたそうだが、私は20年かかった」といい、義珍の息子である船越義英とも親交があった[4]。
- 喜屋武朝徳については、「身体は小さかったが、形の動作の表現が大きいのが特徴だったよ。あの小さい身体で相撲取り崩れとケンカして勝った話も有名だよ。」と語っている。
- 本部朝基については「那覇の喧嘩どころで有名な辻の遊廓街で毎夜暴れて数々の話題を投げたレコードホルダーでもあった。 彼はまとまった奥技型は使えないが、その型にある部処部処の奥技(実戦技)には長じていたようで、それに毎夜の実戦で奥技が活かされ身についていたと当時の武士達は語っていた。」と語っている。[5]