王周

From Wikipedia, the free encyclopedia

王 周(おう しゅう、生年不詳 - 948年)は、五代十国時代軍人本貫魏州[1][2]

経歴

若くして勇気があり、身体頑健であった。後唐荘宗明宗に仕えて従軍し、裨校に累進した。戦功により刺史を歴任した[1][2]

後晋天福2年(937年)、范延光興唐府で反乱を起こすと、王周は楊光遠に従ってこれを攻め降した[1][2]。天福3年(938年)、永清軍節度使に任じられた[3]。天福6年(941年)、安重栄鎮州で反乱を起こすと、王周は杜重威に従ってこれを討ち平らげた[1][2]。天福7年(942年)、涇州節度使に転じた[4]。前涇州節度使の張彦沢の統治が厳しく、涇州の民衆5000戸あまりが逃亡していた。王周は着任すると、前任の弊害二十数事を改め、逃亡した民衆の復帰を図ったことから、褒美を賜った[1][5]。天福8年(943年)、保義軍節度使となった[6]開運元年(944年)、検校太尉を加えられ、義武軍節度使に任じられた[7]。開運2年(945年)、陽城の戦いのとき、王周は晋軍の糧食補給を欠かさなかった。ほどなく成徳軍節度使となった[1][8]

開運3年(946年)、杜重威契丹に降ると、王周は契丹の太宗に降るよう説得を受けた。王周は泣いて自決しようとしたが、家人に止められ、やむを得ず契丹の太宗と面会し、威勝軍節度使・検校太師に任じられた[1][8]

天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が華北を平定すると、王周は武寧軍節度使となり、同平章事を加えられた。乾祐元年(948年)2月、徐州で病没した。中書令の位を追贈された[9][8]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI