王天縦
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経歴
伊川県出身。18歳で鳴皋鎮当局の練勇となり、射撃の腕を磨いた。しかし光緒二十四年(1898年)、憨玉琨らと地元の郷紳・郭八仙を殺害して楼房に放火し、河南知府より逮捕されるも脱獄、故郷の嵩県は楊山の団練首領だった孫琯を頼る[1]。
孫琯(行大)、馬超運(行二)、張屏(行三)、孫炳(行四)、陶福榮(行五)、王天縱(行六)、張治公(行七)、柴雲升(行八)、關金鐘(行九)は義兄弟の契りを結び、反清匪賊グループ「楊山十兄弟」を結成。「打富済貧」を掲げて500~600人の匪賊をしたがえ、度々衙門や巡防隊を襲撃した。豪放磊落な性格の王天縦は豫西緑林の中でも一目置かれ、「河南大侠」と称された[1]。
やがて反清の志を同じくする同盟会と結託するようになり、1910年には日本に渡航して多くの同盟会員と接触。1911年春、河南同盟会は会議を開き、機が熟せば兵力を甲、乙、丙、丁の4部に分かれて蜂起する事で合意した。10月に武昌起義が起こると、黎元洪からの使者を取り付け、楊山で起義を宣言,自らを“丁部大将軍”と号した。同月末、匪賊1000余人を集め、嵩県に到着した同盟会員の劉純仁、劉鎮華らと共同作戦を開始し、洛陽を陥落せしめた。11月中旬には8000人以上に増えた軍勢を率いて陝西省の潼関に赴き、張鈁率いる秦隴復漢軍に加入。東征軍先鋒官に任ぜられ、第一標標統を兼任した。12月21日,王は函谷関を占領、続けて霊宝県城を陥落せしめ、清軍を澠池県に追いやる。しかし、増援で来た北洋新軍第2鎮により洛陽は陥落し、潼関にも周符麟率いる新軍第6鎮第12協、趙倜率いる毅軍が投入された。1912年1月初、王は英豪および張茅一帯で六日間昼夜、四度にわたる争奪戦の末に、潼関と龍駒寨(陝西省商県)の死守に成功した[1]。
王天縦は張鈁に、南陽の占領と洛陽奪還を建議する。1月下旬、荆紫関、内郷、鎮平などを占領。2月18日、河南旅鄂奮勇軍総司令の馬雲卿と会師し、南陽光復を成し遂げた。王は河南臨時都督に推戴され、北伐左路軍総司令を兼任した[1]。
北洋政府への登用
南北和議後も王天縦は同地に駐屯したが、地元郷紳との関係が悪化し、黎元洪の調停の結果、自軍を巡防隊2個営へと縮小され南陽営務処総理に収まった。 冷遇に耐えかねた王天縦は、1912年5月、河南巡防隊隊長の馬文德に職務を譲って河南省を離れ、南京の黎元洪に直談判する。袁世凱の招きで、6月に北京地区稽察長に抜擢された。12月には少将[2]。
なおも北洋政府への合流を拒む省内の匪賊に対し、河南省都督の張鎮芳は「招撫」を目指していたが、王天縦の警告の結果、「楊山十兄弟」のメンバーを多数擁する劉鎮華の鎮嵩軍は「剿匪」の強硬策に転じた。1913年4月に白朗の反乱が起こると、袁世凱より直蘇豫鄂四省“攻匪”聯軍総司令に任ぜられ、第2師を率いて出兵。王天縦は白朗を激しく非難しつつも懐柔策を主張しており、張鎮芳と対立している[3]。しかし、鎮嵩軍による剿匪のきっかけを作った王天縦は当の匪賊たちからは大いに恨まれており、部下の拉致や郷里への放火予告などの報復を受けたため段祺瑞に庇護を求めている[4]。討伐後、10月16日には陸軍中将加銜[5]。1914年2月には、三等文虎章を授与される。
袁世凱死後も黎元洪総統の慰留で北京にとどまり、1917年7月1日、張勲復辟では総統衛隊を指揮し、段祺瑞や航空隊と連携して南河沿以北に追い詰めた[1]。
広州政府への寝返り
1917年8月、王天縦はついに孫文側につく決意をし、上海で対面した孫文より靖国豫軍総司令に任命される。翌年1月、護法戦争に呼応して豫西の元部下や白朗残党ら1万余名を召集し、南陽で河南靖国軍を結成。基盤が不安定だった事から鄂西に転戦し、藍天蔚、黎天才らと豫、鄂、川三省の境界に兵を展開させ、北洋軍と対峙。1919年、重慶にて唐継尭の主催した川滇黔豫鄂五省靖国軍事会議に参加。会議後、北上し援陕の準備を進めていたが、補給を受けられず出陣を断念した。間もなく病に倒れ、1920年、夔州にて病死[1]。