王守恩
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潞州節度使の王建立の子として生まれた。蔭官により、幼くして宮中の職をつとめた。懐州・衛州の刺史として出向し、のちに諸衛将軍を歴任した。後晋の開運4年(947年)、契丹が開封府を陥落させると、守恩はときに休暇を告げて潞州に帰っていた。昭義軍節度使の張従恩は契丹の強盛を恐れて、契丹に入朝しようとした。守恩は張従恩の姻戚で、張従恩に信頼されていたことから、巡検使の権限を求めた。張従恩が開封に向かうと、守恩は潞州の城ごと劉知遠に帰順し、張従恩の家財を奪った。守恩は劉知遠により昭義軍節度使に任じられた。後漢が華北を平定すると、守恩は静難軍節度使に転じ、同平章事を加えられた。乾祐元年(948年)、永興軍節度使となった。趙思綰がすでに長安を占拠していたことから、守恩は西京留守に転じた[4][5]。
守恩は貪欲で卑しい性格で、小吏たちに委任して、搾取収奪につとめた。病人や障害者に対しても、税率を免除せず、人はかれの統治に苦しめられた。洛陽の金持ちが婚礼の会を開いたとき、守恩は楽人たちとともに夜に乗り込んで、自ら祝いの客となり、白金数笏をせしめて退出した。乾祐2年(949年)、郭威が河中府の李守貞を討って凱旋し、軍を洛陽に駐屯させると、白文珂を守恩に代わって西京留守にしようとしたため、守恩は非常に恐れた。かつて守恩に無理やり財産を奪われた洛陽の人々は返還を求めて守恩の邸を訪れ、守恩は逐一これを賠償した。守恩は開封に赴くと、奉朝請にとどめられた。乾祐3年(950年)、史弘肇らが殺害され、少帝石重貴が群臣を召して事態を説明すると、守恩は「陛下は今日はじめて眠りから覚められた」と放言した[6][5]。
後周の広順3年(953年)、守恩は左衛上将軍に任じられた[7]。顕徳元年(954年)、右金吾衛上将軍に転じ、許国公に封じられた。顕徳2年(955年)冬、病身を押して洛陽に帰り、死去した[8]。