白文珂
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はじめ河東節度使の李克用に仕え、河東牙将に任じられ、遼州防禦副使に転じた。李存勗が晋王位を嗣ぐと、文珂は振武軍都指揮使に転じた。後唐の天成2年(927年)、成徳軍節度使の王建立の推薦により文珂は鎮州馬歩軍都指揮使となった[1]。舒州刺史を遥領し、検校司空を加えられた。青州・魏州の都指揮使や瀛州・蔚州・忻州・代州の刺史を歴任した。代州刺史のとき、蕃漢馬歩軍都部署を兼ねた[2]。開運元年(944年)、文珂は契丹を代州の七里烽で破った[3]。劉知遠が太原府に駐屯すると、文珂は北都副留守・検校太保となった[2]。
天福12年(947年)、後漢が建国されると、文珂は河中節度使・河中西南面行営招討使・検校太傅に任じられた。後漢の高祖(劉知遠)が開封府と洛陽を平定すると、文珂は天平軍節度使に転じ、同平章事を加えられた[2]。乾祐元年(948年)、保義軍節度使となり[4]、検校太師を加えられた。河中節度使の李守貞が反乱を起こすと、文珂は隠帝劉承祐の命で河中行営都部署とされた。ときに文珂はすでに年老いていたので、朝議では李守貞の相手にならないことを恐れて、郭威に西征させた。乾祐2年(949年)、李守貞の乱が鎮圧されると、文珂は西都留守・河南尹に任じられた[2]。
後周の広順元年(951年)、太祖(郭威)が即位すると、文珂は中書令を兼ねた[2]。広順3年(953年)、太子太師として致仕した[5]。顕徳元年(954年)、世宗柴栄が即位すると、文珂は晋国公に封じられた[2]。顕徳6年(959年)11月、洛陽で死去した[6]。享年は79[2]。