王潜剛
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| 王潜剛 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 1868年[1] |
| 死去: | 1947年(民国36年)[1] |
| 出身地: |
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| 職業: | 官僚・書家・詩人・評論家 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 王潛剛 |
| 簡体字: | 王潜刚 |
| 拼音: | Wáng Qiángāng |
| ラテン字: | Wang Ch'ien-kang |
| 和名表記: | おう せんごう |
| 発音転記: | ワン・チエンカン(ワン・チエンガン) |
王 潜剛(おう せんごう、1868年 – 1947年〈民国36年〉)は、清末民初の官僚・外交官・書家・詩人・評論家。字は饒生、度公[1][2]。号は観滄海、観滄居士[1][4]。室名は観滄閣[1]。北京政府では安徽派と目されている。後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で各職を歴任した。
初期の活動
清の廩生。清末は軍需官として、北洋糧餉局提調、北洋陸軍司糧官、五省江防軍総参謀官、武衛左軍総理参謀、漢口前敵賑撫局総弁を歴任した[5]。
中華民国成立後は北京政府において対外関係の部門に配され、東海関監督、蕪湖関監督、外交部特派安徽交渉員を歴任した[6]。これらの他、大総統府軍事参議や秘書、煙台海壩工程会長などもつとめている[5]。なお田原禎次郎(天南)は、王潜剛は安徽派幹部たる段芝貴の派閥に属していた旨評している[3]。
親日政権での活動
王克敏が中華民国臨時政府を創立すると、王潜剛もこれに直ちに参加した。1938年(民国27年)1月1日、振済部(総長:王揖唐)総務局局長に起用された[7][8]。同年9月28日の臨時政府機構改革で振済部が廃止され、内政部(総長:王揖唐)が新設されると、王潜剛は同部礼俗局局長に任命されている[9][10][11]。
1940年(民国29年)3月30日、臨時政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流し、華北政務委員会に改組された。王潜剛はすでに齢70を超えていたが、内政部が内務総署に改組された後も、引き続き同総署礼俗局局長代理に重任(派出)されている[12][13][注 1]。1942年(民国31年)7月、内務総署礼俗局局長代理から同総署参事代理に移った[14]。1943年(民国32年)2月、内務総署編纂へと異動している[15][16]。
1943年11月の華北政務委員会機構改革により内務総署は廃止されたが、王潜剛の人事動向に関する情報は『華北政務委員会公報』等に見当たらない[注 2]。
晩年
汪兆銘政権崩壊後における王潜剛の動向は不詳だが、漢奸として摘発されたとの情報は見当たらない。1947年(民国36年)、死去[1]。享年80。