旅順師範学堂卒業後、兄・王子衡の資金援助を受けて日本に留学した。まず山形高等学校で学ぶ[3][4]。次いで1927年(民国16年/昭和2年)4月、京都帝国大学法学部に入学し、1930年(民国19年/昭和5年)3月に卒業した[5][注 1]。
帰国後は満洲国で監察院審計官、奉天市公署総務科長、奉天省理事官[2]、民政部理事官兼総務庁参事官、大同学院教官、民生部参事官、民生部大臣官房弁事、民生部社会司社会科長、民生部厚生司長兼大同学院教官を歴任する。1941年(康徳8年)6月、総務庁統計処長に任命され[1]、1944年(康徳11年)12月16日、北安省長に抜擢された[6]。なお、最後の北安省長となっている。
満洲国崩壊後、王秉鐸は兄の王子衡と同様にソ連軍に逮捕され、シベリアで拘留された。1950年8月、中華人民共和国に送還され、撫順戦犯管理所で収監された。
王秉鐸の没年は不詳だが、兄の王子衡が釈放される以前に撫順戦犯管理所で死去している。
- ↑ 『旅順口区志』編纂委員会(1999)は東北帝国大学卒としているが、誤り。