王章 (五代)
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若くして官吏となり、後梁の魏博節度使の幕府で事務をつとめた。後唐の同光元年(923年)、枢密院に属した。のちに興唐府に帰り、職を歴任して都孔目官となった。清泰3年(936年)、興唐府に駐屯していた奉聖軍都虞候の張令昭が反乱を起こし、魏博節度使の劉延皓を追放して、魏博節度留後を自称した。王章は都孔目官のまま張令昭に使役された。末帝が宣武軍節度使の范延光を派遣して張令昭の乱を鎮圧したが、反乱に加担した者への搜索は厳しかった。王章の妻は白文珂の娘であったが、白文珂は招討副使の李敬周と仲が良かったことから、王章の身柄を預けた。李敬周は王章をラクダの袋の中に載せて、洛陽に逃亡させ、李敬周の私邸に匿った[2][1]。
天福元年(936年)、後晋が建てられると、王章は尚書省の職についた。のちに河陽糧料使として出向した。劉知遠が侍衛親軍をつかさどると、王章はまた都孔目官となった。劉知遠が河東節度使となると、王章は同行して專ら銭穀のことを委ねられた[2][1]。
天福12年(947年)、後漢が建国されると、王章は三司使・検校太傅に任じられ、杜重威に従って広晋府を攻撃した。乾祐元年(948年)、隠帝劉承祐が即位すると、王章は検校太尉・同平章事を加えられた。楊邠・史弘肇・郭威らと結んで、経費の節減と租税の収集につとめ、西方の反乱討伐の軍糧を欠かすことがなかった。隠田を摘発し、租税負担の重さと刑法の厳しさによって、民衆を苦しめた[3][4]。
乾祐3年(950年)冬、楊邠・史弘肇らとともに殺害され、族滅された。妻の白氏は王章が殺害される数カ月前に死去していた。息子はなく、娘がひとりいて、戸部員外郎の張貽粛にとつぎ、長年病を患っていたが、殺害された[5][6]。